ゆうきさらのほんよみにっき@はてブロ

はてなダイアリーから引っ越しました。ゆうきさらが読んだり見たりしたものを気ままにつづります。

NODA・MAP「贋作 桜の森の満開の下」2018年10月27日北九州芸術劇場ソワレ感想

気がついたら師走に入ってましたよびっくりだ。

そろそろはてなダイアリーに置いているログの移行を開始したので、そのうちプロフィールにのっけます。途中からツイログオンリーになったけど、ライフログみたいなものなので残しておこうかなと。

 

ということで、観劇感想をぼちぼち。

 

 初演は平成元年というこの作品、実は名前しか知らず、TLで色々な方が「チケットが取れない」と言っていて、私も先行応募したら見事に落ち。

 北九州公演の一般発売にトライしたら、3階席が1枚だけ残っていたので、慌てて確保したのでした。

 

 観終わって一番に抱いたのは、「これをもっと若い時に観ていれば……!」という、後悔とも安堵ともつかない感情。そこから、なかなか感想を文字に起こせないまま、今に至ってしまったわけですが。

 

 ペダンティック押韻の美しい、意味のあるようなないような台詞の数々。ただただ精緻なセットと散る桜。板の上を覆う大きな紙と、それを突き破って出てくる鬼たち。生と死の境目が曖昧な世界の中で、少女であり悪女であり、恐怖を感じるほどに美しいファムファタールであるところの夜長姫・深津絵里が、運命に魅入られた耳男・妻夫木聡に投げかける言葉は同時に観客への問いかけのようでもあり。

 クライマックス、夜長姫に手をかけ、桜を骸に被せながら身も世もなく嘆く姿があまりにも痛々しくて、引きずられるように泣きながら、「ああ、もっと早くに観たかった」と思ったし、今、観られてよかったとも思ったし。多分、これをもっと若い頃に観ていたら、完全に板の上の魔物に魅入られていただろうから。

 

 ポスト・モダンという言葉がまだ力を持っていたであろう頃に書かれた戯曲は、おそらく私では簡単に理解出来ないような沢山の知性に満ち溢れていて(観たときは監獄の誕生くらいしかわからなかったので、そのうち戯曲を読みたい)、どこか懐かしくて、今はもう遠い、平成とともに消えゆくものを惜しむような、振り返るような、上演時期も含めてとても時流に乗った、そういう部分も含めて、伝説の芝居なんだろうなと。役者としての野田秀樹はちょこちょこと見る機会があったんだけど、劇作家として、本当に天才なんだなあ。

 

 深津絵里は圧巻だった。もう本当にすごい。特に声の色が鮮やかに変わる瞬間、その恐ろしさに震え上がるのだけれど、次の瞬間には子供のような舌足らずの高い声を上げて笑う、その表現の幅に、まるで耳男のように惚れてしまいそうだった。耳男の妻夫木くんは、舞台映えする演技を探っている最中なんだろうなと思ったんだけど、夜長姫を想う気持ちの強さが痛々しくて、気持ちを思い切り引っ張られた。

 男役としてオオアマを演じた天海祐希もまた素晴らしくて。威厳と野望と、抱えた闇の艶やかさ。

 軽やかな古田新太、鬼になった名人達・藤井隆大倉孝二達の賑やかさ。

 

 クライマックスで降りしきる花吹雪は、3階から観ても圧巻で、今思い出してもため息をつくような、狂気と悲しみと美しさに満ちた瞬間だったなあ。

 

 今もうまく言葉には出来ないんだけど、花びらの下に埋まっている夜長姫の骸は、いつか骨になってしまっても、さぞかし美しいんだろうと、妙に感傷的なことを考えてしまった。

 

 演劇は体験だ、と思わされる古典の再演に立ち会えたのは、とても幸せだと思う。