ゆうきさらのほんよみにっき@はてブロ

はてなダイアリーから引っ越しました。ゆうきさらが読んだり見たりしたものを気ままにつづります。

ミュージカル「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」2020年3月21日マチネ

期せずして2公演目(トータル3公演目)になった、鈴木拡樹✕妃海風回、でした。

以下、ネタバレしかないです。ご注意下さい。

 

このエントリに関しては自分の立ち位置を明確にしておいた方がいいかなと思うので、書いておくと、私には全くミュージカルを観る素養がなくてですね。特に翻訳もの。

自分のレシーバーの指向性は完全にストプレ方面なのですわこれが。

元来、私はSF小説に関して、内容が全く頭に入って来なくて、映画なら辛うじて頭に入るっていう感度の低さを発揮しているんですが、観劇をよくするようになって、ミュージカルがまさにそれに当たるということに気がついたんですね。元々、翻訳小説が苦手っていうのもあるんだとは思います(文章の意味が取れないことがある)。

 

まあそもそも、デイミアン・チャゼル監督の映画「セッション」をミュージカル認定しちゃうガバ加減だからしょうがない(セッションはドラマー師弟の地獄の音楽もの映画で、歌はなくてドラムを叩くシーンがメイン)。「LA LA LAND」も好きだけど地獄具合はセッションの方が上だしな。判断基準はそこかよ。

 

ということで、多分ミュージカルとしては的外れな見方しかしてないです。おそらく私には一生わからん世界なので、私として観た感想しか書けないんですが。

以上、このエントリを書くにあたっての保身表明。ミュージカルガチ勢はハイコンテクストな舞台を縦横無尽に読み解いて楽しむインテリゲンチャが揃ってるイメージがあるんですが、私にはそのハイコンテクストさを解読するだけの素養はありません。そんな風に生まれてみたかった。

 

舞台のミュージカル、諸々挑戦してきたものの、大体、そもそもの脚本か演出か倫理観のどこかで引っかかって集中出来なくなる(から内容や歌を楽しむところまで行けない)ので、特に翻訳もののグランドミュージカルに関しては今後行くのはやめよう、行くのは2.5で物語に興味のあるものかミュージカル映画だけにしよう、と決めて、最後の締めだと思って観に行ったのがリトショでした。

 

前置きが長い。ついでにこのエントリ、全部で1万字以上あるので本当に長いです。どうしてこうなった。いや色々語りたかったんだ。割とポエミーなので先に謝りますごめんなさい。

 

それがですね、ハチャメチャに楽しかったんですよ。

観たあとすぐに、前楽だけで帰るつもりだった大阪公演の大千穐楽のチケットを押さえたくらい楽しかった。

 

元々古いB級ホラーで、アメリカ~ンテイストな趣味の悪いブラックコメディ(大好き)っていうのもあるとは思うんですが。

 

一応予習として、あらすじ&バッドエンドバージョンとハッピーエンドバージョンがあるっていうのをさらったのと、作中の音楽は聞いていて、さて舞台はどっちだろうと思っていたら案の定バッドエンド。

(余談だけど、多分私は魔夜峰央先生の漫画で一番最初にリトショのあらすじに触れてると思います。さすが博覧強記の漫画家)

そのバッドエンドが、古典の悲喜劇を観たような後口で大変好みだったんですね。個人的にはシーモアとオードリー2がファウストメフィストフェレスのような印象で。

 

古くてシンプルな作品なだけに、変に今の価値観に合わせずに、普遍性がはっきり打ち出される解釈と演出で来たんだなっていう気がしました。

オードリーとオリンの被DVーDV関係とか、割と現代性もある題材だと思うんですよね。日本の価値観はむしろまだ全然古いから、丁度いいくらいなのかもしれないなと(まあそこはそれで問題あるけど。最初の映画なんてまだ公民権運動が加熱する前に作られてるみたいだしなあ。アフリカ系アメリカ人の差別が当然だった時代やで。映画「グリーンブック」が1962年の話だもんな…閑話休題)。

で、オードリーに対する暴力を痛々しく感じることの出来るシーモアも、決して褒められるようなヒーローではなくて。そこが好きです。

今だったらシーモアにGoTファンでファッティでクールでギークな相棒がついてきて手助けしてくれる展開もあるかもしれないけど(ジュブナイルハリウッド映画の見すぎ)、決してそうじゃない。彼には有名にしてくれる代わりに人肉を要求する植物しかいない。

 

で、オードリー2がデーモン閣下だったので、宇宙生物っていうより悪魔感が5割増しな感じがしたなあ。

閣下最高でした。これまでのオードリー2は閣下じゃなかったと聞いて、正直想像がつかないレベル。

オードリー2は造形も最高でした。着ぐるみのクオリティ素晴らしかった。

そしてオードリー役の妃海風さん、私は以前ストプレの「江戸は燃えているか」で拝見していたんですが、やっぱりミュージカルは本領発揮っていう感じで凄かった。タカラジェンヌつよい。前田文子さんデザインの、バービー人形みたいな衣装がとても似合っていて眼福でした。前田さんデザインのお衣装大好き。

石井さん岸さん、ロウズィーズ(非公式な呼び方だけど一番しっくりくる)のお三方、アンサンブルの方々、バンドの皆様、少人数セッティングなのを全く感じさせなくて、本当に素敵で音圧も凄くてセットも凝っていて、贅沢な時間で。

 

何より、ゲラゲラ笑った先に、血の気が引くような現実を喉元に突きつけられる後味の悪さを、明るくてPOPな音楽というオブラートに包んで無理やり飲み下させる力技になるほどなぁ、と。

ハワード・アシュマンとアラン・メンケン、音楽を担当したミュージカル映画はちょこちょこ観てるんですが(去年もガイ・リッチー版「アラジン」観に行った)、難しいけれどキャッチーな音楽が素敵でした。ウォーキングとか車を運転するときとかにずっとサントラ聴いてます。

あと、演出の上田一豪さんの采配が自分には合っている感じがしたので、他の作品も観てみたさがある(けどミュージカル…っていう葛藤はありますが)。

 

スキッド・ロウという下町で虐げられて暮らしていた植物オタクの青年シーモアが、ある日手に入れた謎の植物を育て始めたことをきっかけに名声を得てゆくのだけれど、得るたびに失うのは倫理観なのか、今手に入れた栄光なのか。

 

で、鈴木拡樹バージョンのシーモアは、片思いの相手オードリーのDV彼氏、歯科医のオリンが笑気ガスの発生装置で事故を起こしたときに、明確に「オリンを見殺しにしよう」という意思が見えたのが物凄くいいな、と思ったんですね。

一幕のラストでぶっ壊れていくシーモアからの、不作為による明確な殺意が「わーこれだよこれ、ホラーの醍醐味だよ!」っていう。未必の故意(死ぬかもしれないと思ったけれど放置)ではなくて、「何もしないから死んでくれ」っていう。

まあ、自分の血をオードリー2に与えていた時点でシーモアは随分イッちゃってると思うんだけど、さらにそこに「人を食わせよう」と考える時点でもうおかしい。

物凄くカニバリズムなホラーだと思うんだけど、個人的にこの展開でハッピーエンドだったら倫理観が合わなかったので、そこもホッとした。フィクションに常識を求めるのは愚の骨頂なんだけど、犯罪者だって焦りもするし悲しみもする(けど人は殺すしそれに対して報いはある)、の方が自分は好きなので。

 

オリンを見殺しにするシーンは、一幕でオードリーがオリンにボコボコにされた傷もあらわに「私にはシーモアはもったいない、オリンみたいな彼が合ってるの」というDVサバイバーの共依存性を手放しきれない風に語るのと対になっているというか、単純に恋敵として邪魔だった、オードリーに酷いことをする男を許せなかった、というだけではなくて、ここでシーモアがオリンのような暴力性を手に入れて、そうしたらオードリーに好かれるんじゃないか、っていう幻想を抱いてしまったようにも見えたんですね。

そしてそのバックにはオードリー2という悪魔のような植物の誘惑を受け入れたことがあるんだな、と。

 

二幕でシーモアがオリンのジャケットを着て出てくるシーンがあるんだけど、シーモアは自分がシーモアである以上オードリーには愛されないだろうと心の底では思っている風で、魂に深く刷り込まれた屈折を感じてなかなかにゾッとした瞬間。

そこでオードリーが思いっきり動揺するのも、シーモアの隠された暴力性にはっきり気がついた感があって。

オードリーもどうかすると主体性がないように見えちゃいそうなのが、シーモアがオリンを見殺しにした=暴力性でオリンを上回ったから惹かれたんだな、っていう想像の余白がある感じで、だからこそ終盤の悲劇が怒涛というか。

最終的にオードリーがオードリー2に食われるシーンで、オードリーはシーモアを赦す風なんだけど、暴力性を受け入れてしまうっていう意味ではオリンの時と同じことを繰り返していて、本当に救いようがなくて辛い。でも幸せ慣れしてないと不幸なルートを繰り返しちゃうよねっていう意味でも。

 

義理とはいえ、利用されているとはいえ、育ててくれたムシュニクをオードリー2に食わせるときはオリンの時よりもっと明確に人を殺そうとする意思があって、さらに一度手を血に染めた人間ならではの変な迷いのなさが「うっわ、この二人目の殺人、めちゃめちゃ生々しいな!」と。人の殺し方の雑さがリアルだなーと思ったんですよね。大体の殺人はそういう雑さがなければ起こらないと個人的には思っているので。そもそも人を殺せば何とかなるなんて雑な思考の極みだし。

シーモアはオリンを解体してオードリー2に食わせてる時点ですでに倫理観が完全にぶっ壊れてると思うんだけど、彼にはストッパーが存在しないんだなっていうこともとても悲しい。

 

シーモアの恋情は純粋なのかもしれないけれど、その純粋さが歪んだ方向に発揮されるのが「うわーーーーアメリカのブラックコメディだな!!!」っていう感じで最高で。育ちによってそういう風にされるんじゃないんですよね。彼は主体的にそうであることを選び取る。

シーモアは自分からオードリー2の蔓を握って、破滅に向かって突っ走る。幸せな道もあるはずなのに、目の前にある甘い誘惑に打ち勝てない弱さがとても人間臭くて、業が深くて、悲しくて愛おしい。

一番欲しかったはずのオードリーを失った瞬間の慟哭は本物で、愚かな人間だと笑うことだって出来るのに笑えなかったところも含めて。

 

本当に救いようがない人達の、もう笑うことしか出来ないような、救いようのない物語。大好き。

 

鈴木拡樹、本当にこういう重さを背負うのめちゃめちゃうまいな!

クリエの最後列、オペラグラスもなしで観たんですが、ささやかなマイムだけでも感情の揺れと葛藤が明確に伝わってくるんですよね。なんなら立ってるだけで表現されるというか。とにかく情報量が多い。強烈な熱量の感情の波を浴びて、「うっわーこれだから観劇はやめられないんだよ!!」って大興奮したりとか。

いや、元々コメディはがっつりやって欲しいと思ってたんですが、どこまでも堕ちてゆくB級ホラーのバッドエンドをやってくれるとかサイコーすぎますね…。

シーモアはちっぽけな存在で、だからこそ自分のしたことを背負いきれなくて、動揺した挙げ句、行為の重さに耐えられず自滅してゆく、滑稽な悲劇の体現者だった。

 

歌については、ぶっちゃけたことを言うと、元々鈴木拡樹という存在に歌とダンスでどうこうというのを全く想像したことがなかったので(歌声自体は好きですが、東宝系のミュージカル的な意味で)、正直、最初に発表されたときは、「えっ、ワタナベの方のすずきひろきさんなのでは?????」って五度見くらいしたんですね。

 

ただ、ここのところの鈴木さんの仕事の方向性として、「自分が出来ることと出来ないことを精査・峻別して、今後のためのフィードバックを得ようとしている」ように見えて、さらに秋以降、映画の撮影以外はギリギリまで仕事をセーブして歌稽古に集中していたので、ああ、本当の本当にやる気で、勝負に打って出たんだなあと。

 

今の立場になって、多分仕事を選ぶのは比較的簡単なんじゃないかと思うんですよ。自分の得意分野だけやろうと思えば出来そうなのに、守りに入らずに、おそらく一番自分が苦手としている分野に頭から突っ込んで行くのが鈴木拡樹なんだなとしみじみしました。髑髏の時も特攻だったもんなあ。

 

凄くしんどそうな人生だな、と思います。私だったら絶対に守りに入るんだけど、この人はそれだけは選ばないんだなと改めて実感したりとか。ただひたすら頭が下がる。この経験の全てを、役者人生の糧にしてさらに高みに上り詰めて欲しいと、祈るような気持ちです。

 

正直、単純に歌唱力だけを言うと、色々難しいところもあったとは思います。何より場数が少ないっていうのがあるしね。でもシーモアという人物のことを考えると、別にそんなに気にはならず、何より、そこに怯まずに自分の出来る全てをシーモアに託して演じていた事がいっそ清々しかった。

 

去年の6月に最遊記歌劇伝の大千穐楽は観ていて、9ヶ月後のリトショではどうなっているんだろうと、その部分ではおっかなびっくりだし正直ハラハラしたんですが。

ファンの欲目もあるかと思いますが、めちゃめちゃ努力したんだな、って感動しました。

 

周囲がうまいだけに技術面では拙い部分が余計見えちゃうんだけど、それ以上に、板の上で生々しくシーモアが生きていて、恋をして、人を殺めて狂ってゆく、でも恋心と良心の呵責がせめぎあう、シーモアの怒涛の感情のアップダウンと、鈴木さんがキャリアとして東宝ミュージカル初挑戦で、頼れるところも経験もなくて、ギリギリまで追い詰められている、その緊張感と、これまで大舞台を何度も踏んできて(ここ数年で踏んできた劇場を考えると、クリエはキャパ小さい方なんだよなあ)、座長である以上自分が芯として立っていないと舞台が成立しないことをよくわかっている人が、一本の芝居を成り立たせるために、自分の限界以上に熱量を引っ張り出して板に乗っている意思の強さが混じり合って、物凄くエモーショナルなシーモアだったな、と。エモい。

 

想像ですが、1公演ごとに疲れ果ててたんじゃないかな、と思うんですよ。でも、小手先のテクニックで誤魔化そうとする態度が一切なくて、全身全霊をかけてシーモアとして板の上に立っていた姿に息を呑みました。

 

私は物語を観に歌を聴きに劇場に行っているんじゃなくて、物語の中で登場人物が得る感情を、演じる役者から浴びたくて劇場に行っているんだな、と実感した日でもありました。終わったあと、感情を浴びすぎてクラクラしてた。

 

私個人は鈴木拡樹の演技はとてもエモーショナルでパワフルな一方、頭では周囲の空気を読んで自分をコントロールする冷静さを持っていて、その両輪で動いているタイプ(板の上では感情をセリフ一言単位で検討した演技プランと周囲の状況を秤にかけて制御して、一番効果的なところで感情のリミッターを外して爆発させるというか)だと認識していて。

一方で、役者の息子でもない、音楽一家だったわけでもない、本人自体が役者になるつもりもなかったらしい状況から今に至る、いわば徒手空拳から、ひたすら場数を踏んで努力一本でここまで来た、さらに2.5の黎明期から歩みを共にして今ここに到達するまでに、血まみれ泥まみれの地獄をナンボでも見てきている人だとも思うんですけど、シーモアみたいに地獄を見てきたことが想像出来る役だと、余計にその背負ってきたものが重なるようで、とても見応えがありました。シーモア本当に好き。

 

歌は素質の問題も大きいと思うので、今はグランドって感じではないかなっていう印象なんですが、このままボイトレを続けて、またオフブロードウェイ発や少人数セッティングのピーキーなミュージカルに出るんだったら喜んで観に行くなあと。

 

周りがうたうまな方ばっかりだし、ミュージカルの文法を身につけた役者陣の中で、鈴木さんはストプレ寄りの文脈での芝居をしていたと思うんですが、ただ完全にストプレという訳でもなく、その不思議なミクスチャー具合が私には丁度良かったんですよね。

オリンとの絡みがどうやらアドリブ満載だったようで、そこがめちゃめちゃおもしろかったので、もっと観たかったなあ…。

 

とはいえ、歌劇伝のときから考えると全く別人のようになっていたので、本当にびっくりしました。きっちり役者歌だった。シーモアとして歌ってた。観たかったのはそれなので物凄く嬉しかったです。そして発音の仕方が変化していたので、きっちり一から積み直した結果なんだなと。

あと、ソロだと音程が不安定になりがちなのに、ハモりが綺麗という不思議な発見をしたので、ちょっと面白かったです。

 

他の日の感想で、歌が進化してる、という呟きを見かけていたので、大阪公演に行くのを心から楽しみにしてました。

平日公演だったので当初諦めていた大千穐楽のチケット、A席が残っていたので慌てて押さえて、有給を取る段取りを考えて、三浦くん井上さん(前に配信で観たストプレ「SLANG」の演技があまりにも強烈で覚えてた)の大千穐楽も観る準備をして、と思っていたのですが。

 

以下は、100年に1度(ゆーてもSARSから18年だから定期的に流行はあると思うんだけど)のパンデミック初期における、1人の市井の人間の忘備録として残しておきます。

 

春節の観光地に中国人観光客が来なかった、という話を観光地で働く知人から聞きつつ、私はどこか他人事でした。

しかし。2月末に出された、政府の自粛要請に応じる形で、リトルショップ・オブ・ホラーズの開幕延期が決まり。

この時もまだ、目の前に起こっていることが信じられず、悠長に構えてました。海外での様子が報じられるようになってもなお。

私は当初から21日マチネのチケットを取っていたものの、3月20日からリトショが開幕する、とはっきりわかったのは19日夜、予約していた飛行機に乗る直前のことでした。

観劇のためにとっておいたマスクをつけ、なるべく手洗いを頻繁にするようにして、ほぼ満席ながら、全員マスクをしているものものしい様子の飛行機が飛び立ったのは19日夜。

 

今回、「ピサロ」→「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」→「リトショ」→「ART」という観劇ツアーの予定でした。ここのところ、年に1度くらい観劇ハシゴツアーはやってたんだけど、年始には全部チケットが取れて、久々の観劇ハシゴにワクワクしていたのが、どれも開幕は延期となり、全ての舞台が初日または2日目(特にピサロはまさかの初日になった)。

20日ピサロのマチネ前に、少し腹ごしらえをしておこうと、開店10分前の渋谷パルコに到着したところ、オープン/クローズ時間が変更されたパルコは開店を待つ人達のすごい列で。建物に入るまでに5分くらいかかったかな。

パルコに着くまでも往来に人が多くて(それでもいつもの渋谷よりは少なかったけど)、「これは色々マズいのでは」と思いつつ、お客さんのいない店を選んでご飯を食べ、そこで帝劇の上演中止を知り、本当に翌日幕が上がるのか不安になりつつも。

パルコ劇場がどこにあるか迷いながら向かうと、観客は全員マスク、劇場の皆さんもマスク、準備されたアルコールで消毒をした後、入口でサーモグラフィーを通って、体温に異常がなければようやく入れる状態。

かれこれ20年来の憧れだったパルコ劇場。初めて入るのが、まさかこんな状況だとは。

とても素晴らしい劇場だった。視界を遮るものは全くない座席。何度でも行きたい、とても居心地のいいホール。すごい。いっぺんに大好きになった。なのに。

どうやら関係者らしき人が「面会も全部シャットアウトだから挨拶が出来なくて」と話しているのを小耳に挟みつつ、ようやく座席へ。初日だけれど空席がそこそこあり、来ない決断をした人達の強さに心の中で頭を下げながら、幕が上がるのを待って。

 

ピサロ」、素晴らしかった。オム・ファタールに呑み込まれてしまう渡辺謙の存在感が流石だった。サーベルの殺陣が観られるとか、独眼竜政宗から観ていた私へのご褒美もいいところだった。伊丹十三訳の脚本の台詞回しが重厚でたまらなかった。

終演後のカーテンコール、顔をくしゃくしゃにした宮沢氷魚くんに、初日おめでとうと心で拍手しつつ、すぐに移動して日生劇場へ。

移動の電車は、どのルートも人が少なくてガラガラだった。東京であんなに電車に座れることがあるなんて思わなかった。なんだかんだで、移動する人はすでに減っていたんだろうとは思う。

 

日生劇場でもまずアルコール消毒から。「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」、ようやく幕が開いたことの喜びが伝わってくるようだった。

 

そして21日のリトショ。友人と二人で行ったんだけど、なるべく劇場内では喋らないように、という注意事項もあってか、観客は静かだった。

コンセッションはペットボトルの飲料だけ販売していた。感染防止のため。

そして、一幕と二幕の間の休憩時間は、(クリエだけじゃなくてどの劇場もだけど)換気のためにドアや窓を全開にしていた。お手洗いの誘導もゆとりがありスムーズ。勿論全員マスク着用。多分、観劇のために取っておいた人も多かったんじゃないかなと思う。花粉症持ちには外の空気は辛かったけど我慢我慢。

休憩時間自体も長めで、シアタークリエ側から日比谷シャンテに出て休憩が取れるようにもなっていた。

 

終演後、友人とは有楽町駅まで歩いて移動しながら感想を話して、ちょっとだけ買い物をしたくらいでわかれて埼玉へ。

 

「ART」も開幕3日目だった。古い友人である男性3人の、白い絵を巡る些細な喧嘩から始まる90分の物語。テクニカルなベテラン役者3人が繰り広げるささやかで愛おしい話が、板の上に乗る、その日常があまりにも尊くて、帰り道で泣きそうになりつつ新宿へ。新宿では別の芝居を観ていた友人と沢山話をして。翌日の午前中も。

バスタ新宿の近くだったんだけど、まだバス旅行者は沢山いた。おそらく、今はガラガラだと思うけれども。

 

地元へ帰る日。すでにテレワークを始めて1ヶ月以上経っている友人と午後に東京駅で会った。もう何度来たかも覚えていないくらい馴染みの、私にとっての東京の象徴でもある建物。外から見た丸の内口は、深夜かと思うくらい行き交う人が少なかった。皇居の前を二人で散歩したけれど、普段よりも人が少ない、とその友人は言っていた。そして、友人はテレワーク中に配信のPPVVを観たと教えてくれた。ありがとう推しを認識してくれて。

それから羽田へ。帰りの飛行機はゆとりがあった。地元の空港からは自家用車で帰ったけれど、病院でクラスター感染が起きたというニュースが流れていた。

 

結局、再度劇場は閉じられることになってしまい。緊急事態宣言が出てからは、映画館もほぼクローズ。

私も3連休後、2週間はなるべく人との接触を避け、マスクをつけて大人しく過ごした。ずっと心が落ち着かなかった。

とりあえず現在に至るまで発症の兆候がなくて、だからこのエントリをアップしている部分もあるんだけど。ただ、発症しなかったのは、今となっては単に偶然だ、とも思う。正直、渋谷ではあまり生きた心地がしなかった。

劇場ではみんな物凄く気を使っていたし、空席もあったからそれなりに人との距離も出来ていた。何より、みんな静かだった。換気も、隙あらばやる、くらいの頻繁さだった。

 

結局、リトショの大千穐楽は3月末。予定より1ヶ月早く。4月の大阪公演は、ずっと一緒に観劇している友人と行く予定だった。きっと、素晴らしい大千穐楽を見せてくれたんだろうな、と考えてしまう。

友人にも観てほしかったのに、Twitterのフォロイーさんにも観てほしかったのに。

何より、座組の皆さんが最後まで続けたかっただろうに。

ただ、キャスト・スタッフの皆さんの、観客の安全を考えると、もうどうしようもなくて。

 

どの劇場でも見かけた空席の中には、もしかしたら医療や介護の関係者で泣く泣く諦めた人のものがあるかもしれない。私は飛行機に乗るという賭けに出たけれど、周囲の状況などを色々考えた上で行かないという選択をした人も沢山いらっしゃると思う。誰も悪くないのに。しんどい。

 

なんでこんなことになったんだろう。いや、新型コロナウィルスのせいなんだけど。

今回東京で会った友人たちと、次にいつ会えるのかもわからない。

勿論SNSやLINEを使えばすぐに繋がるし、これまでそういう付き合い方をしてきたのに、直接会えないとなると心細くなってしまう。長期戦になるなら、もっとどっしり構えなきゃいけないんだけど。

 

誰も悪くない。悪いのは新型コロナウィルス。わかっていても誰かをつい責めそうになるし、身を切る思いをして自主的に劇場を閉じた、一つの芝居を創り上げる多くの人達に対して、それをを守るという題目を掲げた支援がなされていないことに、ひっそりと観劇を続ける人間の一人として怒ってもいる。

 

だから私は、観劇をしたいのは自分のエゴだと言い聞かせながら、夏の公演のチケットを買うし、出来る限りの応援はしたいと思っているんだけれど。

 

頼むから、早く収まって欲しい。そして願わくば、リトショが再演されて、またこのカンパニーが観られますように。

そして、舞台だけでなく、テレビや映画などのコンテンツ全ての制作作業がほぼストップしている今を超えて、鈴木拡樹二度目のクリエ座長公演となる、「アルキメデスの大戦」が、何らかの形で、幕が上げられる状況になりますように。

そのために、しばらくはステイホームを続けようと思います。

 

余談だけど、アフターコロナのアメリカで、リメイク版の映画リトショがどういう風に作られるのかも気になってはいる。タロン・エジャトン(「ロケット・マン」も大変良かった&歌上手くて腰抜かすかと思った好き)とスカーレット・ヨハンソンなだけで画面がキラキラしてそうだけど、オードリー2があまりにもコロナのメタファー過ぎてな…。日本とは桁違いの新型コロナによる悲劇が起きているアメリカで、一体どんなリメイクがなされるんだろう。いつ制作されて、公開されるかも今はわからないけれど。

早く、世界が元気になりますように(と大千穐楽で鈴木さんが挨拶していたそうなので、その言葉を借ります)。

 

そういう意味でも令和の今、舞台版の再演したのはタイムリーだなって思う。優れたクリエイターの作品は時代とリンクするから。

だからこそ、リトショ、どこかでまた観られる機会があるといいなあ!