ゆうきさらのほんよみにっき@はてブロ

はてなダイアリーから引っ越しました。ゆうきさらが読んだり見たりしたものを気ままにつづります。

遠い、近い舞台

※こちらのエントリはSparkle41号で募集している、「舞台の力」企画に寄せたものです。

 

 私は九州の片田舎に住んでいて、正直なところ、普段は文化的な生活とは程遠い日常を送っている、と思う。地元には博物館もないし、ホールはあっても出し物は少ない。

 子供の頃、少女漫画が好きだった私は「ガラスの仮面」で演劇の存在を知り、バレエ漫画に心惹かれていたが、全てはフィクションの世界のもので、私が実際に見聞するものではなかった。

 大学に進学し、選んだのは文化とはほぼ縁のない社会科学。著作権法や刑法の分野で演劇に触れることはあっても、判例内で語られるだけのものだった。

 一方で、大学に通っていた4年間、何故か劇評だけは沢山読んでいた。新聞や演劇雑誌の中で語られる劇評を通じた演劇の世界だけが、私の知る全てだった。

 

 しかし、ここ10年で、少しずつ「舞台」を観に行くことが増えた。

 

 きっかけは2つある。「国民の映画」という三谷幸喜作・演出の作品、その福岡公演を観たことだった。

東日本大震災を挟んで上演された、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスと映画を作る者たちの憧れと業の物語。

演じるのは全員日本人。

しかしそこにはナチス・ドイツの世界が広がっていた。

叩きのめされた。観終わってから声も出なかった。

 

 もう1つは、「TIGER&BUNNY the LIVE」。

 いわゆる、「2.5次元舞台」という言葉を、私はその頃知らなかった。

 震災後に始まったアニメに夢中になった私は、その演劇バージョンが上演されると聞き、運良く取れたチケットを手に上京した。

 脚本・演出は劇団少年社中主宰の毛利亘宏。

 JAEが全面的に協力したその舞台は、キラキラした、でも苦味も切なさも全て抱えた「大人向けのヒーローもの」だった。

 

 2000年代の私は仕事と家庭の事情で県外へ出ることもままならなかった。

 映像で舞台作品を観ることはあったが、実際に劇場で観ることの出来たその2本は、強烈な感覚を私にもたらしてくれた。

 

 私は、劇場の中で、事件の目撃者になっている。

 

 それから、私は時々上京して、観劇をするようになった。

 2.5次元舞台とストレートプレイを中心に、小劇場から大箱まで。

 泣いて笑って、時には苦しい思いや怒りを抱えたりもして。

 でも板の上の物語は、私の目の前で起こる事件だった。

 

 しかし、九州からいちいち上京するのにはとにかくお金と時間がかかる。

 そうこうしているうちに、映画館で「ライブビューイング」というものが始まった。

劇場の様子を映画館で中継してくれるイベント上映。

 以前から劇団☆新感線ゲキシネを観に行ってはいたが、ライブ中継はどんなものだろう、と思って行ってみたのが、「舞台弱虫ペダル」だった。

 

 脚本・演出は西田シャトナー。関西小劇場の世界では伝説となっている「惑星ピスタチオ」の座付き作家だったことを知り、活動していた頃に観たかった2つ目の劇団になった。

 役者が持つのはハンドルだけ。あとはひたすら、走る、走る、走る。

 パワーマイムと名付けられたその表現手法は、幼い頃から何度も読んだ「ガラスの仮面」、その中に出てくる「劇団一角獣」の表現手法そのものだった。

 フィクションと現実が繋がるのが、演劇なんだ。

 強烈な感覚だった。

 映像であることは関係なかった。熱量はスクリーンを超えて、私の心に突き刺さった。

そして、ジャンルとしての「2.5次元舞台」を大好きになった瞬間だった。

 この頃から、2.5次元舞台のストレートプレイに関して、観られるものはなるべく観るようにした。

 勿論直接行けないことは多い。関門海峡を越えるため、飛行機代のやりくりはいつも頭の痛い問題だ。しかし、ライブビューイングやライブ配信は、なかなか移動出来ない私の救いだった。

 

 九州では、福岡という文化都市が、演劇のターミナルの1つになっている。福岡公演があることは、私にとっては救いだった。東京に行く交通費をチケット代にまわせるのは大きいから。

 

 そんな中で、刀剣乱舞というブラウザゲームがリリースされた。

 リリース後すぐに話題になったそれをなんとなくインストールし、ゆるっとプレイしていたら、「ミュージカルとストレートプレイ版の2種類が作られる」というニュースを知った。

 

 「ストレートプレイ、ちょっと気になるな。観てみようかな」

 タイトルは「舞台『刀剣乱舞』 虚伝・燃ゆる本能寺」。

 ライブビューイングのチケットが取れたので、ふらりと観に行ったところ。

 

 ……私は、何かすごいものを観たんじゃないか。

 

 脚本・演出は惑星ピスタチオの劇団員の一人でもあった末満健一。

 観終わって、映画館でぽかんとしていた。

 激しい殺陣、顕現したばかりの不動行光の慟哭。

 三日月宗近の、山姥切国広の印象的な月見酒のシーン。

 生き生きとしたアドリブを挟む軍議。刀剣男士たちの躍動感。仄暗い世界。

 スクリーン越しに圧倒されていた。

 

 程なく虚伝の再演が決まり、今度は福岡公演のチケットを取った。

 生で観た「刀ステ」は、凄まじい熱量を伴う歴史上の事件、だった。

 

 夢中になった、なんて生易しい言葉では済まないと思う。

 多分、魂を抜かれた瞬間だったんだろう。

 もっと、事件の只中にいたい。

 様々な演目を観に行くようになった。そして、刀ステから、役者個人の仕事を追うようにもなった。

 

 年に数回、まとめて舞台のチケットを取って、色々なジャンルの舞台を観るようになった。

 

 2020年3月下旬も、そんな観劇ツアーを組んでいた。歴史劇と、ミュージカルと、会話劇。

 

 しかし、新型コロナウイルスはそれを簡単に許してくれなかった。

 

 中止の嵐。辛うじて上演された作品は、初日が遅れ、4月までには全ての作品が望まぬ大千穐楽を迎えた。板の上の役者達はコロナ禍の中、なんとか幕を上げられたことへの喜びを抱いているようだった。

 そして緊急事態宣言。

 私が事件の只中にあることを、今とは違う世界の住人となることからの断絶を意味するものでもあったのだと思う。

 

 辛うじて観劇出来た3月下旬以降、私の世界はとても平坦になっていた。10年前は観劇のない日常を送っていたはずなのに、私はもう10年前には戻れない。

 演劇は私を、事件の渦中にいようとする人間に変えた。そして同じような思いを抱く友人たちと沢山会って共に劇場に行き、観たものの感想を熱っぽく語りあって。

 沢山の友人を得、観劇をすることと友人と会うことが、いつの間にかセットになっていた。

 しかし今は、それがなかなか出来ない。一方で、ZOOMで配信を流しながら話し合う新しい楽しみを得てもいる。

 

 田舎に住む私に演劇の楽しさの一端を教えてくれたのは、劇場だけでなく中継であり、舞台の映像であり、ライブ配信だ。

 

 コロナ禍の只中で、「12人の優しい日本人」の配信を観た。

 私が現役で活動しているときに観たかった1番目の劇団、東京サンシャインボーイズ

 2024年に再結成し、「リア玉」という新作を観せてくれるだろう、ということは知っていても、劇団を知った当時から伝説になっていた「12人」、しかもほぼオリジナル・キャストで演じられるということが信じられなかった。

 そして、ただただ素晴らしかった。それぞれの部屋で演じられる陪審員の言葉に、笑ったり真顔になったり、思わず泣いてしまったり。

 

 エンディング、ZOOMの機能を存分に使ったカーテンコールに向けて拍手を送りながら、私は「いつかこれを劇場で観られたら」と思っていた。パルコ劇場で? 世田谷パブリックシアターで? いやどこでもいい、劇場で観ることが出来れば。

 

 熱量は画面を超えて私に届く。だから、安全性が確保出来ない今は、画面の向こうの事件を見つめていたい。見つめていることしか出来ない、とも思う。

 

 しかし、もう少し事態が落ち着いて、ゆっくり観劇が出来る状況になったら。

 万障繰り合わせて上京し、あるいは関西へ、福岡へ向かい、また劇場の、少し窮屈な椅子に座って、息を呑むような事件を目撃出来たらいいな、と考えている。

 

 届け方は変わるのかもしれないけれど、事件は舞台にあって、私はそこに居合わせ目撃する者でありたいと願う。

 

 板の上から発せられる熱量が、観劇をする人間に私を変えた。

 けれど田舎暮らしをしている身としては、それが画面越しでも伝わることを知ってもいる。

 

 配信は、私のように演劇をちらりと覗いてみたい人間に対する、とても良いコンテンツだと思っている。

 だから、コロナ禍の諸々で配信を通じて演劇に興味を持った、過去の私のような方に、是非いつか、劇場でお会い出来ればいいな、と。

 一緒に、劇場で事件を体感しませんか?

 

 ウイルスは私に取り付くだけでなく、誰かの命を奪う可能性がある。

  自分がどうすべきなのか、最終的な結論は出ない。どれだけ気をつけていたって感染するときは感染するのがウイルスだ。

 しかし、ほんの100年前、悪夢のようなスペイン風邪を超えて私達はインフルエンザウイルスとなお戦いつつも共生し、演劇もまた沢山の伝染病を乗り越えてここにある。

 

 しばらくは大人しくしているしかないのだろう。世界を覆う圧倒的な悲劇に私は為す術もなく、拡大を抑えるために出来るだけのことをするしかない。

 歯がゆいけれど、ウイルスは狡猾で、しかし、人間の集合知はウイルスと共生する道を開拓するだろうという、歴史的な事実が沢山あるのだから。

 

 愛しい舞台を創り出す全ての人々が苦しい思いをしていると思う。それを支えることすら出来ないのがもどかしいけれど、どうか、心折れず、また劇場で会えることを、ただひたすら祈る。

 

 劇場に戻ったそのときには、板の上の役者に、その作品を支えるスタッフの皆さんに、そして脚本・演出を担う方に、心からの拍手を捧げたい。

 その時まで、どうか、ご健勝で。