ゆうきさらのほんよみにっき@はてブロ

はてなダイアリーから引っ越しました。ゆうきさらが読んだり見たりしたものを気ままにつづります。

舞台 最遊記歌劇伝-Sunrise- 感想

2公演と大楽のWOWOW生放送を見ました。13年間の重みを背負った作品のひとまずの締めを、新参者の私がどう言葉にすればいいのかわからなかったんですが、とりとめもなくつらつらと。ネタバレします。敬称略したり略さなかったり。

 

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舞台「時子さんのトキ」 2020年9月19日ソワレ@よみうり大手町ホール

tokikosan.com

 

ということで。

東京で観劇するのは、3月のまとめて観劇ツアー以来で、正直なところまだ早いかなとも思っていたんですが。

住んでいる田舎のコロナ対策のガバガバ具合を見て、「これは東京の方が対策徹底されてるんじゃ?」となったので思い切って飛んだんですけど、考えた通りでした。

東京は沢山感染者が出ているだけに、意識の高い人が多いんですよね。

これ、うちの田舎だとマスクなしとか鼻が出てるとかまーじでゴロゴロしてるから!

 

といっても、8月に舞台「死神遣いの事件帖」の福岡公演を観て、ちょっとリハビリをした上での観劇旅行でした。(こっちも感想書きたいんだけど夏場は完全に暑さでやられてたのでこれからやります)

 

さて、久々に板の上で観る鈴木拡樹でしたが。

 

以下はツイートをまとめたもの&補足です。ネタバレ項目をまとめの下に作ってます。

箇条書きになってるのはツイート。

 

・上手い人しかいない芝居はめちゃめちゃに贅沢だな…本当に贅沢だな…

絶唱サロメ以来の豊原さんが可愛くて悶絶してたかわいい

・当て書きの脚本すんばらしい

・私のエンタメ好きのルーツの1つにテレビドラマ好きがあって、岡田惠和脚本とか最近の坂元裕二脚本とか、ヒリヒリした日常に胸を締め付けられる系の展開があると飛びつくんだけど、時子さんまさにそこにドンピシャだった。これNHKの単発ドラマで見たいやつ

・ワイ、笑いながら泣かされるシーン大好きなので本当にチョロい(好き)

・でも脚本の田村さんのルーツが向田邦子っていうの、物凄くわかる。わかりみが深い。私は向田邦子ドラマリアタイじゃないけど、教科書でエッセイ読んでからしばらくエッセイいくつか読んだんだよなあ。あの墜落事故がなかったら、向田邦子は今の世界をどう描いてたんだろう

・今の仕事でクズとダメ人間と多額の借金を見慣れてるマンなので「あっうんまだ大丈夫」って思ったの自分でワロタ

・演技面や内容で一切役者を甘やかす気のない脚本演出はすごいなあ。あれ、みんな身を切る想いで演技してるんじゃなかろうか

・…んだけど、演劇なりのWithコロナの時代の姿勢を見せてもらえた気がして、凄くホッとした…そういう作品に鈴木さんが出て、しかも当て書きで、とても良い演技を見せてくれたの、本当に感謝しかないなあ。また田村作品で観たい

・大手町ホールは「私の頭の中の消しゴム」以来2度目だったんだけど、鈴木さんの現代ものを観るホールだなあ。とても好きなホールだったし、物凄く良い演技だった。本当に良い演技だった!高橋由美子の時子さんとのコミュニケーションとディスコミュニケーションの塩梅が物凄く理想的で

・いや、Withコロナの時代なんかクソっ喰らえって思うけど、同時に創作者にとっては、全世界で一斉に同じ条件(つっても国によって状況違うけど)の創作物が作れるっていう、ある意味業の深いチャンスでもあるじゃないですか。それに貪欲な芝居が板の上に乗ってるのを、ようやく観せてもらえた気がする

・コロナの諸々が思い切り表面化したときに、それを人がきちんと見られる商業用の創作物に落とし込むのってNHKのドラマが一番早くて、しかもどれも納得の出来だったし、一方で正直演劇関係の反応や動きに失望することも多くて(主にえらい人のムーブな)、二心なく観られるんだろうかって不安があったんだけど、演劇なりのWithコロナの時代の姿勢を見せてもらえた気がして、凄くホッとした…そういう作品に鈴木さんが出て、しかも当て書きで、とても良い演技を見せてくれたの、本当に感謝しかないなあ。また田村作品で観たい

・いやー自分が脚本演出の方に求めてるのは底意地の悪さなんだなってしみじみしたわ…私が底意地悪いのもあるけど…未婚で子供のいない高橋さんに時子さんを、2.5で堅実に足場を固めて今がある鈴木さんに売れない路上ミュージシャンの翔真をあてるっていう当て書き脚本つよい

・いやーなんか個人的に今年の現代もの創作枠は映画「his」ドラマ「MIU404」舞台「時子さんのトキ」で割と満足してるかもしれない…いい年だった(まだ終わってない)

・時子さんはMIUのベトナム人労働者回に比べたらハッピーエンドやで…オチがよりによって日本で一番時給が低くて失業率の高い県に転職とか物凄い強烈なメリバじゃんって思ったもんなあ

 

以下、補足&本編のネタバレに触れるので、少し間を空けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい。

この作品、自分のポジションによって全く感想が変わるだろうと思うし、それくらいグラデーションのある豊かな脚本だなと、2日経った今改めて感心してます。

で、私のポジションを明らかにしておくと、債務整理のあれこれの事務担当をしているので、日々時子さんや翔真みたいな人を相手に聞き取りをして申立書を作ってる身としては「うーわーいるわこういう人」の連続で、とにかく苦笑してました。

 

(余談だけど今の仕事始めてから宝くじが怖くて買えなくなりました。宝くじは破産の免責不許可事由にあたる立派なギャンブルだから気をつけて…。 ソシャゲもな…。 ゆーても借金の返済より命の方が圧倒的に大事なので、借金返せなくなったら速やかに近くの弁護士に相談するんやで…都会にある、宣伝打ちまくってる弁護士事務所に相談すると逆に高くついたりするから…)

 

で、日々相手しているだけに、完全に他人事として扱う癖がついてるので(感情移入しすぎるとメンタルが死ぬ)、頭では完全に切り離して観てたんですけども。

 

個人的に、時子さんの造形がとにかくおっかないんですよね。ラスト、色のついた服をまとった息子のトキが出てきますけど、本当のトキだとしたら、トキと同じ顔、同じ声の翔真は一体誰だったんだろうと。

 

芝居は完全に時子さんのモノローグ、となると時子さん視点で物語が進んでいて、時子さん以外の役者は全て兼役なのは、時子さんにとっての世界に「他人」のバリエーションが少なくて、しかも白い、蜃気楼みたいな存在なのかもしれないなと。

ある意味ホラーめいていて。

 

「時子さんのトキ」自体は、恋愛ものというよりは「りさ子のガチ恋俳優沼」とか、最近話題になった小説「推し、燃ゆ」の系譜だと思うんですよね。

時子さん→翔真のベクトルは、推しを推すヲタクの言動によく似ているというか。

ただ、ラストから逆算して考えるなら、翔真は時子さんが推したかったけれど、父親のところに行ってしまった息子・トキの幻以上の何者でもなくて、だからこそ、クライマックス、前夫からトキのことについて責められたのと、何より「翔真の母親」の存在が明らかになって、翔真が自分の母のために時子さんからお金を借りたとわかった瞬間に、全てが醒めたのかなあ、とか。

 

翔真は翔真で、推してくれる人として時子さんを必要としていたんだろうな、とは思う。ただ、時子さんの言動は「推す人ー推される人」という範疇に収めるには過剰で、怖くなって、途中で恋愛っていう枠の中に押し込めて納得しようとしたけど、時子さんから拒絶されてしまって引くに引けなくなった、キャパの小さな普通の人なんだろうなと。時子さんから借りた金を返す甲斐性はないけれど、少なくとも、最後、北海道に戻ってから時子さんへの借金を踏み倒すことなく、毎月10万円払い続けるような、小さな普通の人。

 

時子さんは「昭和のおばさん」だと自称するけれど、スナックの常連の会長から金を借りる時に、自覚的に「前夫の名前を同意なく連帯保証人欄に記載する」っていう有印私文書偽造をやらかしてるんですよね。ここで倫理の壁を超えちゃってるのが、まあエグい。

 

エグいと言えば、デビュー30年経ってなおアイドルであり続けている高橋由美子と、ジャンル的にファンから推されることが一番その存在を後押しする2.5に長年関わり続けている鈴木拡樹に、時子さんと翔真/トキを当てる田村孝裕さんの脚本は、役者を一切甘やかさなくて凄いなと。

 

役者6人の会話劇、しかも時子さんのモノローグが殆どの中で、出っぱなしで喋り続ける高橋さんの胆力、言動の中の嘘と本当が次第に見えてくる、細やかな鈴木さんの演技、そして二人の嘘とその中の真実が見え隠れする二人の掛け合い。

伊藤修子さん、矢部太郎さん、山田森広さん、豊原江理佳さん、皆さん癖のある役をとても存在感のある演技で見せていて、その演技力の強さ素晴らしさにニコニコしてました。特に豊原さん演じる、既婚者の小夏さん(翔真りあこ勢っぽい強火担)が、ライバル的立場でありながら、思わず時子さんをかばうシーンがなんとも素敵で。

みんな、悪い人じゃないんですよね。だからこそわかりあえない立場になってしまう。

いや時子さんの前夫のDVは本当にあかんけど。連帯保証人の件は時子さんの前夫への復讐なのかもしれないとも思ったし。

 

ツイートまとめの中で岡田惠和脚本の話を書きましたけど、田村さん、去年岡田脚本の舞台の演出をされてたんですね。納得。

優しさと苦さの割合が近い気がします。田村さんの脚本の方が苦い気はするけども。

 

2020年9月、観客の私達がマスクをつけ、厳密に消毒や手洗いをして客席に座っているように、2020年9月の今を生きる板の上の人物たちがマスクをし、椅子を消毒している姿が、風刺ではなく今ここにある現実として描かれていることに、なんだかホッとしたりもしつつ。

時子さんも翔真もコロナ禍で収入が激減して、だからこそお金でつながっていた二人の関係が立ち行かなくなってしまう。そんな状況を今私も目の前にして、増えつつある自分の仕事に戦々恐々としているんですが、上記のように、ドラマではそんなシーンが描かれているのを観ていても、まだ演劇では観られてなかったんですよね、そういう状況。

1月から少しずつ、なんだか変なウイルスが広がり始めているという話を聞いて、一気に演劇がストップした3月。それから緊急事態宣言。止まった社会、死んだ経済活動。

そういう状況に早々に斬り込んでいったのがテレビドラマで、新型コロナウィルスとあまりにも相性の悪すぎる演劇は再起動するまで時間がかかってしまった。

 

私がこの国の演劇に対して抱いているイメージそのままだったので、正直苦笑するしかなかったんですが(「古い価値観をなかなかアップデートできないメディア」っていうのが強固にあるんですわ)、ようやく、納得の出来る「新型コロナウィルスを何とかやり過ごしていかなきゃ食い詰めてしまう、待ったなしの状態の今」の形を、演劇というメディアで出してもらえた気がしてます。演劇はそこ抉ってナンボでしょと思ってるので。

 

ファンタジーと生々しさの割合が独特で(時子さん周りはファンタジー要素大なんでしょうけど、ファンタジーというかまあエンディング直前まで時子さんにとって都合のいい妄想めいてますよね。そこに自覚的な演出だいすき)、観終わった今も据わりの悪さが残ってるのが、「ああ、演劇を観たなあ!」っていう満足感になってます。

 

丁度先日放送された、野木亜紀子脚本のドラマ「MIU404」の最終回がまさに2020年の今で、バディを組んでいる二人は車の中でマスクをし、ドラッグのオーバードーズで見た東京オリンピックは中止、聖火ランナーとしてのランニングも幻になってしまった。

そんな日常を私達が生きているように、板の上の時子さんは、翔真は、トキは、小夏は、みんなは、見えないウイルスに振り回されながら、どうしようもない人生を必死で生きている。

トキの姿が見えるようになった時子さんが、借金と罪を抱えてコロナ禍を生きてゆくのなら、翔真が実家に戻って、時子さんに借金を返済しながら暮らしてゆくのなら、どうしようもない私もとりあえず生きてていいんじゃないのか、と思えるようなエンディングでした。

 

そして私は宝くじは買えないと思いつつ、次のチケット戦争が待ってる訳ですが。時子さんは翔真は鏡だなとしみじみしてしまったのでした。

 

大阪公演も行く予定なので、とても楽しみにしています。

GoToトラベルのおかげで旅費が2/3になって、これもコロナ禍に生きる私の業なんだなあと苦笑しつつ。

遠い、近い舞台

※こちらのエントリはSparkle41号で募集している、「舞台の力」企画に寄せたものです。

 

 私は九州の片田舎に住んでいて、正直なところ、普段は文化的な生活とは程遠い日常を送っている、と思う。地元には博物館もないし、ホールはあっても出し物は少ない。

 子供の頃、少女漫画が好きだった私は「ガラスの仮面」で演劇の存在を知り、バレエ漫画に心惹かれていたが、全てはフィクションの世界のもので、私が実際に見聞するものではなかった。

 大学に進学し、選んだのは文化とはほぼ縁のない社会科学。著作権法や刑法の分野で演劇に触れることはあっても、判例内で語られるだけのものだった。

 一方で、大学に通っていた4年間、何故か劇評だけは沢山読んでいた。新聞や演劇雑誌の中で語られる劇評を通じた演劇の世界だけが、私の知る全てだった。

 

 しかし、ここ10年で、少しずつ「舞台」を観に行くことが増えた。

 

 きっかけは2つある。「国民の映画」という三谷幸喜作・演出の作品、その福岡公演を観たことだった。

東日本大震災を挟んで上演された、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスと映画を作る者たちの憧れと業の物語。

演じるのは全員日本人。

しかしそこにはナチス・ドイツの世界が広がっていた。

叩きのめされた。観終わってから声も出なかった。

 

 もう1つは、「TIGER&BUNNY the LIVE」。

 いわゆる、「2.5次元舞台」という言葉を、私はその頃知らなかった。

 震災後に始まったアニメに夢中になった私は、その演劇バージョンが上演されると聞き、運良く取れたチケットを手に上京した。

 脚本・演出は劇団少年社中主宰の毛利亘宏。

 JAEが全面的に協力したその舞台は、キラキラした、でも苦味も切なさも全て抱えた「大人向けのヒーローもの」だった。

 

 2000年代の私は仕事と家庭の事情で県外へ出ることもままならなかった。

 映像で舞台作品を観ることはあったが、実際に劇場で観ることの出来たその2本は、強烈な感覚を私にもたらしてくれた。

 

 私は、劇場の中で、事件の目撃者になっている。

 

 それから、私は時々上京して、観劇をするようになった。

 2.5次元舞台とストレートプレイを中心に、小劇場から大箱まで。

 泣いて笑って、時には苦しい思いや怒りを抱えたりもして。

 でも板の上の物語は、私の目の前で起こる事件だった。

 

 しかし、九州からいちいち上京するのにはとにかくお金と時間がかかる。

 そうこうしているうちに、映画館で「ライブビューイング」というものが始まった。

劇場の様子を映画館で中継してくれるイベント上映。

 以前から劇団☆新感線ゲキシネを観に行ってはいたが、ライブ中継はどんなものだろう、と思って行ってみたのが、「舞台弱虫ペダル」だった。

 

 脚本・演出は西田シャトナー。関西小劇場の世界では伝説となっている「惑星ピスタチオ」の座付き作家だったことを知り、活動していた頃に観たかった2つ目の劇団になった。

 役者が持つのはハンドルだけ。あとはひたすら、走る、走る、走る。

 パワーマイムと名付けられたその表現手法は、幼い頃から何度も読んだ「ガラスの仮面」、その中に出てくる「劇団一角獣」の表現手法そのものだった。

 フィクションと現実が繋がるのが、演劇なんだ。

 強烈な感覚だった。

 映像であることは関係なかった。熱量はスクリーンを超えて、私の心に突き刺さった。

そして、ジャンルとしての「2.5次元舞台」を大好きになった瞬間だった。

 この頃から、2.5次元舞台のストレートプレイに関して、観られるものはなるべく観るようにした。

 勿論直接行けないことは多い。関門海峡を越えるため、飛行機代のやりくりはいつも頭の痛い問題だ。しかし、ライブビューイングやライブ配信は、なかなか移動出来ない私の救いだった。

 

 九州では、福岡という文化都市が、演劇のターミナルの1つになっている。福岡公演があることは、私にとっては救いだった。東京に行く交通費をチケット代にまわせるのは大きいから。

 

 そんな中で、刀剣乱舞というブラウザゲームがリリースされた。

 リリース後すぐに話題になったそれをなんとなくインストールし、ゆるっとプレイしていたら、「ミュージカルとストレートプレイ版の2種類が作られる」というニュースを知った。

 

 「ストレートプレイ、ちょっと気になるな。観てみようかな」

 タイトルは「舞台『刀剣乱舞』 虚伝・燃ゆる本能寺」。

 ライブビューイングのチケットが取れたので、ふらりと観に行ったところ。

 

 ……私は、何かすごいものを観たんじゃないか。

 

 脚本・演出は惑星ピスタチオの劇団員の一人でもあった末満健一。

 観終わって、映画館でぽかんとしていた。

 激しい殺陣、顕現したばかりの不動行光の慟哭。

 三日月宗近の、山姥切国広の印象的な月見酒のシーン。

 生き生きとしたアドリブを挟む軍議。刀剣男士たちの躍動感。仄暗い世界。

 スクリーン越しに圧倒されていた。

 

 程なく虚伝の再演が決まり、今度は福岡公演のチケットを取った。

 生で観た「刀ステ」は、凄まじい熱量を伴う歴史上の事件、だった。

 

 夢中になった、なんて生易しい言葉では済まないと思う。

 多分、魂を抜かれた瞬間だったんだろう。

 もっと、事件の只中にいたい。

 様々な演目を観に行くようになった。そして、刀ステから、役者個人の仕事を追うようにもなった。

 

 年に数回、まとめて舞台のチケットを取って、色々なジャンルの舞台を観るようになった。

 

 2020年3月下旬も、そんな観劇ツアーを組んでいた。歴史劇と、ミュージカルと、会話劇。

 

 しかし、新型コロナウイルスはそれを簡単に許してくれなかった。

 

 中止の嵐。辛うじて上演された作品は、初日が遅れ、4月までには全ての作品が望まぬ大千穐楽を迎えた。板の上の役者達はコロナ禍の中、なんとか幕を上げられたことへの喜びを抱いているようだった。

 そして緊急事態宣言。

 私が事件の只中にあることを、今とは違う世界の住人となることからの断絶を意味するものでもあったのだと思う。

 

 辛うじて観劇出来た3月下旬以降、私の世界はとても平坦になっていた。10年前は観劇のない日常を送っていたはずなのに、私はもう10年前には戻れない。

 演劇は私を、事件の渦中にいようとする人間に変えた。そして同じような思いを抱く友人たちと沢山会って共に劇場に行き、観たものの感想を熱っぽく語りあって。

 沢山の友人を得、観劇をすることと友人と会うことが、いつの間にかセットになっていた。

 しかし今は、それがなかなか出来ない。一方で、ZOOMで配信を流しながら話し合う新しい楽しみを得てもいる。

 

 田舎に住む私に演劇の楽しさの一端を教えてくれたのは、劇場だけでなく中継であり、舞台の映像であり、ライブ配信だ。

 

 コロナ禍の只中で、「12人の優しい日本人」の配信を観た。

 私が現役で活動しているときに観たかった1番目の劇団、東京サンシャインボーイズ

 2024年に再結成し、「リア玉」という新作を観せてくれるだろう、ということは知っていても、劇団を知った当時から伝説になっていた「12人」、しかもほぼオリジナル・キャストで演じられるということが信じられなかった。

 そして、ただただ素晴らしかった。それぞれの部屋で演じられる陪審員の言葉に、笑ったり真顔になったり、思わず泣いてしまったり。

 

 エンディング、ZOOMの機能を存分に使ったカーテンコールに向けて拍手を送りながら、私は「いつかこれを劇場で観られたら」と思っていた。パルコ劇場で? 世田谷パブリックシアターで? いやどこでもいい、劇場で観ることが出来れば。

 

 熱量は画面を超えて私に届く。だから、安全性が確保出来ない今は、画面の向こうの事件を見つめていたい。見つめていることしか出来ない、とも思う。

 

 しかし、もう少し事態が落ち着いて、ゆっくり観劇が出来る状況になったら。

 万障繰り合わせて上京し、あるいは関西へ、福岡へ向かい、また劇場の、少し窮屈な椅子に座って、息を呑むような事件を目撃出来たらいいな、と考えている。

 

 届け方は変わるのかもしれないけれど、事件は舞台にあって、私はそこに居合わせ目撃する者でありたいと願う。

 

 板の上から発せられる熱量が、観劇をする人間に私を変えた。

 けれど田舎暮らしをしている身としては、それが画面越しでも伝わることを知ってもいる。

 

 配信は、私のように演劇をちらりと覗いてみたい人間に対する、とても良いコンテンツだと思っている。

 だから、コロナ禍の諸々で配信を通じて演劇に興味を持った、過去の私のような方に、是非いつか、劇場でお会い出来ればいいな、と。

 一緒に、劇場で事件を体感しませんか?

 

 ウイルスは私に取り付くだけでなく、誰かの命を奪う可能性がある。

  自分がどうすべきなのか、最終的な結論は出ない。どれだけ気をつけていたって感染するときは感染するのがウイルスだ。

 しかし、ほんの100年前、悪夢のようなスペイン風邪を超えて私達はインフルエンザウイルスとなお戦いつつも共生し、演劇もまた沢山の伝染病を乗り越えてここにある。

 

 しばらくは大人しくしているしかないのだろう。世界を覆う圧倒的な悲劇に私は為す術もなく、拡大を抑えるために出来るだけのことをするしかない。

 歯がゆいけれど、ウイルスは狡猾で、しかし、人間の集合知はウイルスと共生する道を開拓するだろうという、歴史的な事実が沢山あるのだから。

 

 愛しい舞台を創り出す全ての人々が苦しい思いをしていると思う。それを支えることすら出来ないのがもどかしいけれど、どうか、心折れず、また劇場で会えることを、ただひたすら祈る。

 

 劇場に戻ったそのときには、板の上の役者に、その作品を支えるスタッフの皆さんに、そして脚本・演出を担う方に、心からの拍手を捧げたい。

 その時まで、どうか、ご健勝で。

ミュージカル「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」2020年3月21日マチネ

期せずして2公演目(トータル3公演目)になった、鈴木拡樹✕妃海風回、でした。

以下、ネタバレしかないです。ご注意下さい。

 

このエントリに関しては自分の立ち位置を明確にしておいた方がいいかなと思うので、書いておくと、私には全くミュージカルを観る素養がなくてですね。特に翻訳もの。

自分のレシーバーの指向性は完全にストプレ方面なのですわこれが。

元来、私はSF小説に関して、内容が全く頭に入って来なくて、映画なら辛うじて頭に入るっていう感度の低さを発揮しているんですが、観劇をよくするようになって、ミュージカルがまさにそれに当たるということに気がついたんですね。元々、翻訳小説が苦手っていうのもあるんだとは思います(文章の意味が取れないことがある)。

 

まあそもそも、デイミアン・チャゼル監督の映画「セッション」をミュージカル認定しちゃうガバ加減だからしょうがない(セッションはドラマー師弟の地獄の音楽もの映画で、歌はなくてドラムを叩くシーンがメイン)。「LA LA LAND」も好きだけど地獄具合はセッションの方が上だしな。判断基準はそこかよ。

 

ということで、多分ミュージカルとしては的外れな見方しかしてないです。おそらく私には一生わからん世界なので、私として観た感想しか書けないんですが。

以上、このエントリを書くにあたっての保身表明。ミュージカルガチ勢はハイコンテクストな舞台を縦横無尽に読み解いて楽しむインテリゲンチャが揃ってるイメージがあるんですが、私にはそのハイコンテクストさを解読するだけの素養はありません。そんな風に生まれてみたかった。

 

舞台のミュージカル、諸々挑戦してきたものの、大体、そもそもの脚本か演出か倫理観のどこかで引っかかって集中出来なくなる(から内容や歌を楽しむところまで行けない)ので、特に翻訳もののグランドミュージカルに関しては今後行くのはやめよう、行くのは2.5で物語に興味のあるものかミュージカル映画だけにしよう、と決めて、最後の締めだと思って観に行ったのがリトショでした。

 

前置きが長い。ついでにこのエントリ、全部で1万字以上あるので本当に長いです。どうしてこうなった。いや色々語りたかったんだ。割とポエミーなので先に謝りますごめんなさい。

 

それがですね、ハチャメチャに楽しかったんですよ。

観たあとすぐに、前楽だけで帰るつもりだった大阪公演の大千穐楽のチケットを押さえたくらい楽しかった。

 

元々古いB級ホラーで、アメリカ~ンテイストな趣味の悪いブラックコメディ(大好き)っていうのもあるとは思うんですが。

 

一応予習として、あらすじ&バッドエンドバージョンとハッピーエンドバージョンがあるっていうのをさらったのと、作中の音楽は聞いていて、さて舞台はどっちだろうと思っていたら案の定バッドエンド。

(余談だけど、多分私は魔夜峰央先生の漫画で一番最初にリトショのあらすじに触れてると思います。さすが博覧強記の漫画家)

そのバッドエンドが、古典の悲喜劇を観たような後口で大変好みだったんですね。個人的にはシーモアとオードリー2がファウストメフィストフェレスのような印象で。

 

古くてシンプルな作品なだけに、変に今の価値観に合わせずに、普遍性がはっきり打ち出される解釈と演出で来たんだなっていう気がしました。

オードリーとオリンの被DVーDV関係とか、割と現代性もある題材だと思うんですよね。日本の価値観はむしろまだ全然古いから、丁度いいくらいなのかもしれないなと(まあそこはそれで問題あるけど。最初の映画なんてまだ公民権運動が加熱する前に作られてるみたいだしなあ。アフリカ系アメリカ人の差別が当然だった時代やで。映画「グリーンブック」が1962年の話だもんな…閑話休題)。

で、オードリーに対する暴力を痛々しく感じることの出来るシーモアも、決して褒められるようなヒーローではなくて。そこが好きです。

今だったらシーモアにGoTファンでファッティでクールでギークな相棒がついてきて手助けしてくれる展開もあるかもしれないけど(ジュブナイルハリウッド映画の見すぎ)、決してそうじゃない。彼には有名にしてくれる代わりに人肉を要求する植物しかいない。

 

で、オードリー2がデーモン閣下だったので、宇宙生物っていうより悪魔感が5割増しな感じがしたなあ。

閣下最高でした。これまでのオードリー2は閣下じゃなかったと聞いて、正直想像がつかないレベル。

オードリー2は造形も最高でした。着ぐるみのクオリティ素晴らしかった。

そしてオードリー役の妃海風さん、私は以前ストプレの「江戸は燃えているか」で拝見していたんですが、やっぱりミュージカルは本領発揮っていう感じで凄かった。タカラジェンヌつよい。前田文子さんデザインの、バービー人形みたいな衣装がとても似合っていて眼福でした。前田さんデザインのお衣装大好き。

石井さん岸さん、ロウズィーズ(非公式な呼び方だけど一番しっくりくる)のお三方、アンサンブルの方々、バンドの皆様、少人数セッティングなのを全く感じさせなくて、本当に素敵で音圧も凄くてセットも凝っていて、贅沢な時間で。

 

何より、ゲラゲラ笑った先に、血の気が引くような現実を喉元に突きつけられる後味の悪さを、明るくてPOPな音楽というオブラートに包んで無理やり飲み下させる力技になるほどなぁ、と。

ハワード・アシュマンとアラン・メンケン、音楽を担当したミュージカル映画はちょこちょこ観てるんですが(去年もガイ・リッチー版「アラジン」観に行った)、難しいけれどキャッチーな音楽が素敵でした。ウォーキングとか車を運転するときとかにずっとサントラ聴いてます。

あと、演出の上田一豪さんの采配が自分には合っている感じがしたので、他の作品も観てみたさがある(けどミュージカル…っていう葛藤はありますが)。

 

スキッド・ロウという下町で虐げられて暮らしていた植物オタクの青年シーモアが、ある日手に入れた謎の植物を育て始めたことをきっかけに名声を得てゆくのだけれど、得るたびに失うのは倫理観なのか、今手に入れた栄光なのか。

 

で、鈴木拡樹バージョンのシーモアは、片思いの相手オードリーのDV彼氏、歯科医のオリンが笑気ガスの発生装置で事故を起こしたときに、明確に「オリンを見殺しにしよう」という意思が見えたのが物凄くいいな、と思ったんですね。

一幕のラストでぶっ壊れていくシーモアからの、不作為による明確な殺意が「わーこれだよこれ、ホラーの醍醐味だよ!」っていう。未必の故意(死ぬかもしれないと思ったけれど放置)ではなくて、「何もしないから死んでくれ」っていう。

まあ、自分の血をオードリー2に与えていた時点でシーモアは随分イッちゃってると思うんだけど、さらにそこに「人を食わせよう」と考える時点でもうおかしい。

物凄くカニバリズムなホラーだと思うんだけど、個人的にこの展開でハッピーエンドだったら倫理観が合わなかったので、そこもホッとした。フィクションに常識を求めるのは愚の骨頂なんだけど、犯罪者だって焦りもするし悲しみもする(けど人は殺すしそれに対して報いはある)、の方が自分は好きなので。

 

オリンを見殺しにするシーンは、一幕でオードリーがオリンにボコボコにされた傷もあらわに「私にはシーモアはもったいない、オリンみたいな彼が合ってるの」というDVサバイバーの共依存性を手放しきれない風に語るのと対になっているというか、単純に恋敵として邪魔だった、オードリーに酷いことをする男を許せなかった、というだけではなくて、ここでシーモアがオリンのような暴力性を手に入れて、そうしたらオードリーに好かれるんじゃないか、っていう幻想を抱いてしまったようにも見えたんですね。

そしてそのバックにはオードリー2という悪魔のような植物の誘惑を受け入れたことがあるんだな、と。

 

二幕でシーモアがオリンのジャケットを着て出てくるシーンがあるんだけど、シーモアは自分がシーモアである以上オードリーには愛されないだろうと心の底では思っている風で、魂に深く刷り込まれた屈折を感じてなかなかにゾッとした瞬間。

そこでオードリーが思いっきり動揺するのも、シーモアの隠された暴力性にはっきり気がついた感があって。

オードリーもどうかすると主体性がないように見えちゃいそうなのが、シーモアがオリンを見殺しにした=暴力性でオリンを上回ったから惹かれたんだな、っていう想像の余白がある感じで、だからこそ終盤の悲劇が怒涛というか。

最終的にオードリーがオードリー2に食われるシーンで、オードリーはシーモアを赦す風なんだけど、暴力性を受け入れてしまうっていう意味ではオリンの時と同じことを繰り返していて、本当に救いようがなくて辛い。でも幸せ慣れしてないと不幸なルートを繰り返しちゃうよねっていう意味でも。

 

義理とはいえ、利用されているとはいえ、育ててくれたムシュニクをオードリー2に食わせるときはオリンの時よりもっと明確に人を殺そうとする意思があって、さらに一度手を血に染めた人間ならではの変な迷いのなさが「うっわ、この二人目の殺人、めちゃめちゃ生々しいな!」と。人の殺し方の雑さがリアルだなーと思ったんですよね。大体の殺人はそういう雑さがなければ起こらないと個人的には思っているので。そもそも人を殺せば何とかなるなんて雑な思考の極みだし。

シーモアはオリンを解体してオードリー2に食わせてる時点ですでに倫理観が完全にぶっ壊れてると思うんだけど、彼にはストッパーが存在しないんだなっていうこともとても悲しい。

 

シーモアの恋情は純粋なのかもしれないけれど、その純粋さが歪んだ方向に発揮されるのが「うわーーーーアメリカのブラックコメディだな!!!」っていう感じで最高で。育ちによってそういう風にされるんじゃないんですよね。彼は主体的にそうであることを選び取る。

シーモアは自分からオードリー2の蔓を握って、破滅に向かって突っ走る。幸せな道もあるはずなのに、目の前にある甘い誘惑に打ち勝てない弱さがとても人間臭くて、業が深くて、悲しくて愛おしい。

一番欲しかったはずのオードリーを失った瞬間の慟哭は本物で、愚かな人間だと笑うことだって出来るのに笑えなかったところも含めて。

 

本当に救いようがない人達の、もう笑うことしか出来ないような、救いようのない物語。大好き。

 

鈴木拡樹、本当にこういう重さを背負うのめちゃめちゃうまいな!

クリエの最後列、オペラグラスもなしで観たんですが、ささやかなマイムだけでも感情の揺れと葛藤が明確に伝わってくるんですよね。なんなら立ってるだけで表現されるというか。とにかく情報量が多い。強烈な熱量の感情の波を浴びて、「うっわーこれだから観劇はやめられないんだよ!!」って大興奮したりとか。

いや、元々コメディはがっつりやって欲しいと思ってたんですが、どこまでも堕ちてゆくB級ホラーのバッドエンドをやってくれるとかサイコーすぎますね…。

シーモアはちっぽけな存在で、だからこそ自分のしたことを背負いきれなくて、動揺した挙げ句、行為の重さに耐えられず自滅してゆく、滑稽な悲劇の体現者だった。

 

歌については、ぶっちゃけたことを言うと、元々鈴木拡樹という存在に歌とダンスでどうこうというのを全く想像したことがなかったので(歌声自体は好きですが、東宝系のミュージカル的な意味で)、正直、最初に発表されたときは、「えっ、ワタナベの方のすずきひろきさんなのでは?????」って五度見くらいしたんですね。

 

ただ、ここのところの鈴木さんの仕事の方向性として、「自分が出来ることと出来ないことを精査・峻別して、今後のためのフィードバックを得ようとしている」ように見えて、さらに秋以降、映画の撮影以外はギリギリまで仕事をセーブして歌稽古に集中していたので、ああ、本当の本当にやる気で、勝負に打って出たんだなあと。

 

今の立場になって、多分仕事を選ぶのは比較的簡単なんじゃないかと思うんですよ。自分の得意分野だけやろうと思えば出来そうなのに、守りに入らずに、おそらく一番自分が苦手としている分野に頭から突っ込んで行くのが鈴木拡樹なんだなとしみじみしました。髑髏の時も特攻だったもんなあ。

 

凄くしんどそうな人生だな、と思います。私だったら絶対に守りに入るんだけど、この人はそれだけは選ばないんだなと改めて実感したりとか。ただひたすら頭が下がる。この経験の全てを、役者人生の糧にしてさらに高みに上り詰めて欲しいと、祈るような気持ちです。

 

正直、単純に歌唱力だけを言うと、色々難しいところもあったとは思います。何より場数が少ないっていうのがあるしね。でもシーモアという人物のことを考えると、別にそんなに気にはならず、何より、そこに怯まずに自分の出来る全てをシーモアに託して演じていた事がいっそ清々しかった。

 

去年の6月に最遊記歌劇伝の大千穐楽は観ていて、9ヶ月後のリトショではどうなっているんだろうと、その部分ではおっかなびっくりだし正直ハラハラしたんですが。

ファンの欲目もあるかと思いますが、めちゃめちゃ努力したんだな、って感動しました。

 

周囲がうまいだけに技術面では拙い部分が余計見えちゃうんだけど、それ以上に、板の上で生々しくシーモアが生きていて、恋をして、人を殺めて狂ってゆく、でも恋心と良心の呵責がせめぎあう、シーモアの怒涛の感情のアップダウンと、鈴木さんがキャリアとして東宝ミュージカル初挑戦で、頼れるところも経験もなくて、ギリギリまで追い詰められている、その緊張感と、これまで大舞台を何度も踏んできて(ここ数年で踏んできた劇場を考えると、クリエはキャパ小さい方なんだよなあ)、座長である以上自分が芯として立っていないと舞台が成立しないことをよくわかっている人が、一本の芝居を成り立たせるために、自分の限界以上に熱量を引っ張り出して板に乗っている意思の強さが混じり合って、物凄くエモーショナルなシーモアだったな、と。エモい。

 

想像ですが、1公演ごとに疲れ果ててたんじゃないかな、と思うんですよ。でも、小手先のテクニックで誤魔化そうとする態度が一切なくて、全身全霊をかけてシーモアとして板の上に立っていた姿に息を呑みました。

 

私は物語を観に歌を聴きに劇場に行っているんじゃなくて、物語の中で登場人物が得る感情を、演じる役者から浴びたくて劇場に行っているんだな、と実感した日でもありました。終わったあと、感情を浴びすぎてクラクラしてた。

 

私個人は鈴木拡樹の演技はとてもエモーショナルでパワフルな一方、頭では周囲の空気を読んで自分をコントロールする冷静さを持っていて、その両輪で動いているタイプ(板の上では感情をセリフ一言単位で検討した演技プランと周囲の状況を秤にかけて制御して、一番効果的なところで感情のリミッターを外して爆発させるというか)だと認識していて。

一方で、役者の息子でもない、音楽一家だったわけでもない、本人自体が役者になるつもりもなかったらしい状況から今に至る、いわば徒手空拳から、ひたすら場数を踏んで努力一本でここまで来た、さらに2.5の黎明期から歩みを共にして今ここに到達するまでに、血まみれ泥まみれの地獄をナンボでも見てきている人だとも思うんですけど、シーモアみたいに地獄を見てきたことが想像出来る役だと、余計にその背負ってきたものが重なるようで、とても見応えがありました。シーモア本当に好き。

 

歌は素質の問題も大きいと思うので、今はグランドって感じではないかなっていう印象なんですが、このままボイトレを続けて、またオフブロードウェイ発や少人数セッティングのピーキーなミュージカルに出るんだったら喜んで観に行くなあと。

 

周りがうたうまな方ばっかりだし、ミュージカルの文法を身につけた役者陣の中で、鈴木さんはストプレ寄りの文脈での芝居をしていたと思うんですが、ただ完全にストプレという訳でもなく、その不思議なミクスチャー具合が私には丁度良かったんですよね。

オリンとの絡みがどうやらアドリブ満載だったようで、そこがめちゃめちゃおもしろかったので、もっと観たかったなあ…。

 

とはいえ、歌劇伝のときから考えると全く別人のようになっていたので、本当にびっくりしました。きっちり役者歌だった。シーモアとして歌ってた。観たかったのはそれなので物凄く嬉しかったです。そして発音の仕方が変化していたので、きっちり一から積み直した結果なんだなと。

あと、ソロだと音程が不安定になりがちなのに、ハモりが綺麗という不思議な発見をしたので、ちょっと面白かったです。

 

他の日の感想で、歌が進化してる、という呟きを見かけていたので、大阪公演に行くのを心から楽しみにしてました。

平日公演だったので当初諦めていた大千穐楽のチケット、A席が残っていたので慌てて押さえて、有給を取る段取りを考えて、三浦くん井上さん(前に配信で観たストプレ「SLANG」の演技があまりにも強烈で覚えてた)の大千穐楽も観る準備をして、と思っていたのですが。

 

以下は、100年に1度(ゆーてもSARSから18年だから定期的に流行はあると思うんだけど)のパンデミック初期における、1人の市井の人間の忘備録として残しておきます。

 

春節の観光地に中国人観光客が来なかった、という話を観光地で働く知人から聞きつつ、私はどこか他人事でした。

しかし。2月末に出された、政府の自粛要請に応じる形で、リトルショップ・オブ・ホラーズの開幕延期が決まり。

この時もまだ、目の前に起こっていることが信じられず、悠長に構えてました。海外での様子が報じられるようになってもなお。

私は当初から21日マチネのチケットを取っていたものの、3月20日からリトショが開幕する、とはっきりわかったのは19日夜、予約していた飛行機に乗る直前のことでした。

観劇のためにとっておいたマスクをつけ、なるべく手洗いを頻繁にするようにして、ほぼ満席ながら、全員マスクをしているものものしい様子の飛行機が飛び立ったのは19日夜。

 

今回、「ピサロ」→「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」→「リトショ」→「ART」という観劇ツアーの予定でした。ここのところ、年に1度くらい観劇ハシゴツアーはやってたんだけど、年始には全部チケットが取れて、久々の観劇ハシゴにワクワクしていたのが、どれも開幕は延期となり、全ての舞台が初日または2日目(特にピサロはまさかの初日になった)。

20日ピサロのマチネ前に、少し腹ごしらえをしておこうと、開店10分前の渋谷パルコに到着したところ、オープン/クローズ時間が変更されたパルコは開店を待つ人達のすごい列で。建物に入るまでに5分くらいかかったかな。

パルコに着くまでも往来に人が多くて(それでもいつもの渋谷よりは少なかったけど)、「これは色々マズいのでは」と思いつつ、お客さんのいない店を選んでご飯を食べ、そこで帝劇の上演中止を知り、本当に翌日幕が上がるのか不安になりつつも。

パルコ劇場がどこにあるか迷いながら向かうと、観客は全員マスク、劇場の皆さんもマスク、準備されたアルコールで消毒をした後、入口でサーモグラフィーを通って、体温に異常がなければようやく入れる状態。

かれこれ20年来の憧れだったパルコ劇場。初めて入るのが、まさかこんな状況だとは。

とても素晴らしい劇場だった。視界を遮るものは全くない座席。何度でも行きたい、とても居心地のいいホール。すごい。いっぺんに大好きになった。なのに。

どうやら関係者らしき人が「面会も全部シャットアウトだから挨拶が出来なくて」と話しているのを小耳に挟みつつ、ようやく座席へ。初日だけれど空席がそこそこあり、来ない決断をした人達の強さに心の中で頭を下げながら、幕が上がるのを待って。

 

ピサロ」、素晴らしかった。オム・ファタールに呑み込まれてしまう渡辺謙の存在感が流石だった。サーベルの殺陣が観られるとか、独眼竜政宗から観ていた私へのご褒美もいいところだった。伊丹十三訳の脚本の台詞回しが重厚でたまらなかった。

終演後のカーテンコール、顔をくしゃくしゃにした宮沢氷魚くんに、初日おめでとうと心で拍手しつつ、すぐに移動して日生劇場へ。

移動の電車は、どのルートも人が少なくてガラガラだった。東京であんなに電車に座れることがあるなんて思わなかった。なんだかんだで、移動する人はすでに減っていたんだろうとは思う。

 

日生劇場でもまずアルコール消毒から。「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」、ようやく幕が開いたことの喜びが伝わってくるようだった。

 

そして21日のリトショ。友人と二人で行ったんだけど、なるべく劇場内では喋らないように、という注意事項もあってか、観客は静かだった。

コンセッションはペットボトルの飲料だけ販売していた。感染防止のため。

そして、一幕と二幕の間の休憩時間は、(クリエだけじゃなくてどの劇場もだけど)換気のためにドアや窓を全開にしていた。お手洗いの誘導もゆとりがありスムーズ。勿論全員マスク着用。多分、観劇のために取っておいた人も多かったんじゃないかなと思う。花粉症持ちには外の空気は辛かったけど我慢我慢。

休憩時間自体も長めで、シアタークリエ側から日比谷シャンテに出て休憩が取れるようにもなっていた。

 

終演後、友人とは有楽町駅まで歩いて移動しながら感想を話して、ちょっとだけ買い物をしたくらいでわかれて埼玉へ。

 

「ART」も開幕3日目だった。古い友人である男性3人の、白い絵を巡る些細な喧嘩から始まる90分の物語。テクニカルなベテラン役者3人が繰り広げるささやかで愛おしい話が、板の上に乗る、その日常があまりにも尊くて、帰り道で泣きそうになりつつ新宿へ。新宿では別の芝居を観ていた友人と沢山話をして。翌日の午前中も。

バスタ新宿の近くだったんだけど、まだバス旅行者は沢山いた。おそらく、今はガラガラだと思うけれども。

 

地元へ帰る日。すでにテレワークを始めて1ヶ月以上経っている友人と午後に東京駅で会った。もう何度来たかも覚えていないくらい馴染みの、私にとっての東京の象徴でもある建物。外から見た丸の内口は、深夜かと思うくらい行き交う人が少なかった。皇居の前を二人で散歩したけれど、普段よりも人が少ない、とその友人は言っていた。そして、友人はテレワーク中に配信のPPVVを観たと教えてくれた。ありがとう推しを認識してくれて。

それから羽田へ。帰りの飛行機はゆとりがあった。地元の空港からは自家用車で帰ったけれど、病院でクラスター感染が起きたというニュースが流れていた。

 

結局、再度劇場は閉じられることになってしまい。緊急事態宣言が出てからは、映画館もほぼクローズ。

私も3連休後、2週間はなるべく人との接触を避け、マスクをつけて大人しく過ごした。ずっと心が落ち着かなかった。

とりあえず現在に至るまで発症の兆候がなくて、だからこのエントリをアップしている部分もあるんだけど。ただ、発症しなかったのは、今となっては単に偶然だ、とも思う。正直、渋谷ではあまり生きた心地がしなかった。

劇場ではみんな物凄く気を使っていたし、空席もあったからそれなりに人との距離も出来ていた。何より、みんな静かだった。換気も、隙あらばやる、くらいの頻繁さだった。

 

結局、リトショの大千穐楽は3月末。予定より1ヶ月早く。4月の大阪公演は、ずっと一緒に観劇している友人と行く予定だった。きっと、素晴らしい大千穐楽を見せてくれたんだろうな、と考えてしまう。

友人にも観てほしかったのに、Twitterのフォロイーさんにも観てほしかったのに。

何より、座組の皆さんが最後まで続けたかっただろうに。

ただ、キャスト・スタッフの皆さんの、観客の安全を考えると、もうどうしようもなくて。

 

どの劇場でも見かけた空席の中には、もしかしたら医療や介護の関係者で泣く泣く諦めた人のものがあるかもしれない。私は飛行機に乗るという賭けに出たけれど、周囲の状況などを色々考えた上で行かないという選択をした人も沢山いらっしゃると思う。誰も悪くないのに。しんどい。

 

なんでこんなことになったんだろう。いや、新型コロナウィルスのせいなんだけど。

今回東京で会った友人たちと、次にいつ会えるのかもわからない。

勿論SNSやLINEを使えばすぐに繋がるし、これまでそういう付き合い方をしてきたのに、直接会えないとなると心細くなってしまう。長期戦になるなら、もっとどっしり構えなきゃいけないんだけど。

 

誰も悪くない。悪いのは新型コロナウィルス。わかっていても誰かをつい責めそうになるし、身を切る思いをして自主的に劇場を閉じた、一つの芝居を創り上げる多くの人達に対して、それをを守るという題目を掲げた支援がなされていないことに、ひっそりと観劇を続ける人間の一人として怒ってもいる。

 

だから私は、観劇をしたいのは自分のエゴだと言い聞かせながら、夏の公演のチケットを買うし、出来る限りの応援はしたいと思っているんだけれど。

 

頼むから、早く収まって欲しい。そして願わくば、リトショが再演されて、またこのカンパニーが観られますように。

そして、舞台だけでなく、テレビや映画などのコンテンツ全ての制作作業がほぼストップしている今を超えて、鈴木拡樹二度目のクリエ座長公演となる、「アルキメデスの大戦」が、何らかの形で、幕が上げられる状況になりますように。

そのために、しばらくはステイホームを続けようと思います。

 

余談だけど、アフターコロナのアメリカで、リメイク版の映画リトショがどういう風に作られるのかも気になってはいる。タロン・エジャトン(「ロケット・マン」も大変良かった&歌上手くて腰抜かすかと思った好き)とスカーレット・ヨハンソンなだけで画面がキラキラしてそうだけど、オードリー2があまりにもコロナのメタファー過ぎてな…。日本とは桁違いの新型コロナによる悲劇が起きているアメリカで、一体どんなリメイクがなされるんだろう。いつ制作されて、公開されるかも今はわからないけれど。

早く、世界が元気になりますように(と大千穐楽で鈴木さんが挨拶していたそうなので、その言葉を借ります)。

 

そういう意味でも令和の今、舞台版の再演したのはタイムリーだなって思う。優れたクリエイターの作品は時代とリンクするから。

だからこそ、リトショ、どこかでまた観られる機会があるといいなあ!

映画「カフカの東京絶望日記」を見てきた

 気がついたら3月だし世の中はコロナウィルス騒動で瀕死ですが、とりあえず私は仕事であっぷあっぷしつつも生きてます。みんな生き延びて落ち着いた暁には思う存分エンタメを浴びような…。

 

ということで、3月7日に舞台挨拶回に行ける予定だったのがコロナウィルスのry…な状況ではあったんですが、払い出したチケット代でカフカの東京絶望日記・劇場版を見てきました。

 

https://v-storage.bnarts.jp/kafka_drama/

 

アニメだと本編総集編を劇場で、っていうのはよくありますが、ドラマでは珍しいなと思いつつ、大画面で再編集版を見るとまた新しい発見があるし、何より音がいい…。音響のために映画館に映画を観に行く人間なので、細かい効果音が足されたりしているのも楽しみつつ、ずっとマスクの下でニヤニヤしてました。

 

何かと言えばネガティブ思考に陥ってしまって絶望するフランツ・カフカと個性的過ぎるくらい個性的な人たちが東京の下町に住んでいる不思議なショートドラマ集なんですが。

説明がうまく出来ないのでYoutube公式配信で1話見てください。

 

youtu.be

 映画でピックアップされていたのは、カッツェを拾う回、バーベキューに出かけて自殺志望の青年に会う回、婚活回、売れない地下ドルの回、ポジティブカフカに変身して波紋を呼ぶ回、など、でしたが。

 

 実は私、このシリーズがものすごく好きなんですね。カフカさんの絶望っぷりがあまりにもパワフルすぎて自分の悩みとかどうでも良くなるのと、カフカさんも周囲の人も、人に優しいというか、どんな人でも存在を否定しないところから関係性が始まっている辺りが。

 個人的には映画に入っていない、パン屋の同僚つぐみちゃんが女芸人コンビの相方をつとめる回も好きです。

 

 カフカさんの絶望は自分が無能であること一点に向かっていて、一切他人を攻撃しないし、嫁に逃げられたマスターや女装が趣味のパン屋の店長をはじめ、周囲が「まあカフカはそういう人だし」でスルーしつつ、ポジティブカフカ回では、みんながそんなカフカさんをなんだかんだ受け入れていることが提示されるんですよね。

 あと、ポジティブカフカ回でさり気なく織り込まれる父親との不和エピソードの重さが、その前の軽さと対象的で、長いエピソードも見てみたいなーと思いつつ。あと、ナツオの腹筋は私も拝みたい。

 親友のマックス・ブロートとの関係がこじれたまま終わってしまったので、どうか関係改善の2期をやってください。待ってるので…。こんな状況の中、もう一度映画に行くのはなかなかに困難なので、せめて円盤は買ってみた。

 

 今この時期、あちこちで舞台作品の上演が中止されていて。外に出てみれば街中はガラガラ、映画館もガラガラ、私も滅多にないマスクフル装備&こまめに手洗い消毒しつつ映画を観に行くという結構絶望的な状況の中、2週間限定のこの映画に元気をもらって帰ってきました。

 絶望する姿が吹き出しちゃうくらい元気なんですよね、カフカさん。絶望するのには気力も体力も使うし、実はとてつもなく健康なことなのかもしれないと思いつつ、地元に戻ってきました。

 

 この1月に「his」という映画の上映が始まって、個人的には2020年邦画ベスト(いや多分20年代邦画のベスト5に入ると思うまだ始まったばっかりだけど)くらいの勢いの作品なんですが、カフカ脚本のアサダさんが脚本を書いている、っていうのも、観に行くきっかけの一つだったんですよね。

 私、最終回で号泣してしばらく立ち直れなかったくらい「ウゴウゴ・ルーガ」という伝説の子供番組が好きで(いや既に大きなお友だちだったけど見てたんだよ…)、アサダさんのお名前を「マリーの知っとこ! ジャポン」で拝見したときに、「あれ、ウゴウゴ・ルーガでお名前拝見したことあるぞ…?」という思わぬ再会があったんですが、マリーも子供番組なだけに、鈴木さんがEテレの拡樹お兄さんしていなかったら再会出来ていなかったし、カフカさんにもhisにも辿り着かなかったと思うので、鈴木さんにもアサダさんにも感謝だし、マリーちゃんもカフカさんも、あるいは別の作品でも、また組んでくれることを心から願ってます。

 

早く円盤届かないかなあ! 心が削られることが多いけども、エンタメは魂に栄養をくれるんだなと噛み締めました。どうか早く落ち着いてくれ…。

 

舞台『刀剣乱舞』 維伝 朧の志士たち 赤坂ACTシアター2019/12/22ソワレ感想

ネタバレしかないから気をつけてね!

 

あと、基本的にこのエントリは感想と妄想で出来ています。

慈伝については感想書く暇がなかったのと、チケット全部外れてライビュでしか観られなかったので、結局エントリは立てられませんでした。まあ水モノだから仕方ない!

そして、末満健一脚本演出のTRUMPシリーズの名前が出てきます。

なお、このエントリを書いているのは悲伝の亡霊だから色々すまん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あまりにも、あまりにも脚本演出の出来が素晴らしかったです。

幕末ものとしても刀剣乱舞としてもサイコーでしょこんなの…。

あと、可変式のステージが文久土佐の構造とリンクしていると明かされた瞬間、鳥肌が凄かった。

 ペダステの坂が大好きだった人間として、あの可変ステージは「ザッツマーベラス謹製!」っていう感じで。セットチェンジするの本当に大変だと思うし、どうか最後まで怪我にはお気をつけて…。

 蒼木むっちゃんの陽属性が大好きなんだけど、最後に不穏さを残して終わるのも非常に「と、刀ステ~~~!!!」っていう感じで。

 何より歴史人物キャスト、岡田さん一色さん神農さん唐橋さんの醸し出す生々しさが、刀剣男士と良い対比になっていて、さらに歴史ものとしての重厚さが加わってたなあと。

 そして蒼木むっちゃんと一色さんのアクロバティックな殺陣がまあ華やかで。

 南海先生の罠張りダンスタイムも最高でした。

 

色々まとまらない&大楽にもう一度観る予定なので、エントリに色々追記するとは思うんですが。

 

以下舞台アカ https://twitter.com/yuukisarastage の自分のツイート引用。

 

 維伝観て、末満脚本は物凄く作劇のセオリーに忠実に、「あるキャラクターから一番大切なものが奪われることに直面したときの葛藤を描く」構成だと思ったし、これって案外手ぬるくなっちゃいがちなので、そこの容赦なさに感服したんだけど、三日月とまんばちゃんの物語は「一番大切なもの」を敢えて描かずに伏線を張っていってて、それ故に据わりの悪さを感じる部分があるんだなあと。ジョ伝や維伝はそこがないから、エンタメとして物凄く上質にストレートに面白いんだなと改めて思うなどした。

 維伝は「この本丸には円環を廻り続ける三日月宗近とそれを救いたい山姥切国広がいる」っていうステ本丸独自のマクガフィンがあるらしい、っていう程度に情報の出し方を留めつつ、慈伝までを知っていたら違う部分が見えてきて、まるで騙し絵でも見ているような構成だなとしみじみ思った。

 逆の言い方をすると、維伝以降の物語は三日月と山姥切の逸話をマクガフィンとして扱うことに留めておくことも出来るし、その先を見せる方向に持っていくこともできるし、長編シリーズになってきたステ本丸のハンドリングとして非常に納得出来る&したたかな構成だなと(褒めてる)。

 逸話というか、ステ本丸の神話かな…神話の結末は世界の滅亡かその神話を持つ文明の衰退しかないんだけど、慈伝まではステ本丸の神話を構築するのに必要な「物語」だったのかもしれないなあ…。

 

引用以上。

 

 悲伝の亡霊なのでどうしても円環を巡る三日月宗近とそれを救いたい山姥切国広のことを考えてしまうんですが、先日日テレプラスの一挙を観てたら、義伝で三日月が「政宗の執念がループの起点」っていうのを発言しているんですよね。

 この発言から考えると、誰かの執念が起点になって三日月宗近は円環にはまり込んだと考えてもいいんじゃないかと思うんですが、そこで出てきた謎の時間遡行軍ですよ…。

 いや元々、この辺のエントリで、まんばちゃんが関わってるんじゃっていうのは書いてたんですが、いざあの姿で出てくると精神的ダメージが凄いな…。

 

 

yuuki-sara.hatenablog.com

 

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 彼は沢山の刀剣男士の物語を求めているようだけれど、これは今後シリーズで沢山の刀剣男士の物語が語られるっていうメタファーでもあるだろうし、山姥切国広がジョ伝で高らかに叫んだ「俺達の物語だ!」、三日月宗近が悲伝でつぶやいた「この本丸での俺の物語も、ここまでだ」という台詞にもかかってくるんだろうなと楽しみだったり切なかったり。

 

 そして、最後にむっちゃんが残した不穏な空気、「刀とは」という問答は、悲伝で燭台切光忠が歌仙兼定からの言葉で揺さぶられた「僕たちは刀だ」っていう問答と被っているなと。

 兼さんが銃を使ったことといい、これからキーになる問答だと思うので、どう展開するのか本当に気になる…。

 

 そんなこんなで鳥太刀ですよ。

まさかの染鶴復活と悲伝に続いての小烏丸登場に驚いたんですが、慈伝までの物語の語り手として欠かせないんですよね。

 染鶴を実際に舞台で観るのは初めてで、「圧が、圧が強い…!」というのが第一印象だったんですが、序盤からトリックスターとして楽しそうにアドリブをぶっ込んでいたのに、終盤の「寂しいんだ」ですよ。こんなん涙腺崩壊するじゃろ。ずるい。

 三日月宗近と楽しそうに山姥切国広にちょっかいを出していたあの日日が、鶴丸国永にとってどんなものだったのか、一言で全部わかってしまう重さを持っているのは流石だった…。

そして要所要所をきちんと締める小烏丸パパの存在感は相変わらずで素晴らしい。

 小烏丸は一体何を知っていて、どんな役割を持っているんだろうなと。 

 

 そして、どうやら二振りあるらしい鶴丸、江雪、骨喰が本丸内に揃うことはあるんだろうか。ジョ伝の山伏国広とは別に折れた刀達、もしかして虚伝で山姥切国広が話していたエピソードは、実はジョ伝の事じゃなくて維伝に出てきたあのエピソードなんだろうかと謎は深まるばかりなんですが、福岡でもう一度観られるのが本当に楽しみです。

 

 

 

あともう一つ引用。

 

 虚伝から一気に見てくと、物凄い勢いで末満脚本演出がブラッシュアップされていってるのがわかって、人は与えられたキャパに伴って成長していくものなんだなってしみじみしている…維伝は1つの到達点だと思うの…。

 

引用以上。

 

 今回、大箱にふさわしい演出だと思ったし、むしろ箱が小さく思えるくらいだったんですよね。というか、自分がステアラにいるんじゃないかっていう気になったし、何年後かにステアラで刀ステやってもおかしくないんじゃって思いました。

 SPECTOR再演あたりから、物凄い勢いで演出が研ぎ澄まされているように思ったんですよ。COCOON月の陰りのラストで大量の花びらが血のように舞い落ちるエンドも素晴らしかったですが、維伝は物語の構造とリンクしたセットチェンジがあまりにも見事で。

 あれを人力でやり遂げてるの、アンサンブルの皆さん含め正気の沙汰じゃないな?! と思うんですが、とにかく凄い。あれだけでも一見の価値がある…。

 

 そして、悲伝の戯曲に目を通して、一気に悲伝の頃に心が戻ってしまったんですが。

後書で号泣したので、やっぱり「ここにいる三日月宗近と、ここにいる山姥切国広の物語」のその先を観たいな、とも思ってしまうわけで。

 今よりももっとブラッシュアップされるであろう末満脚本演出で、それを観ることが叶えばいいなあ。

 「TRUMP」からの「COCOON 星ひとつ」で、ソフィからウルへの、ウルからソフィへの想いの謎が10年越しで明らかになったように、あの本丸の謎が明らかになる日が来るといい、と祈った年の瀬でした。

推し活2019

えっ、今年もあと2日で終わりとか嘘でしょ?!

 

ということでしばらくブログの更新がロクに出来てませんでしたが私は生きてます。

むしろ職場の人が死にかけて、こっちも仕事のリスケで心の余裕が死んでました。

みんな年末までに復帰してくれて良かった…。

何とか冬休みに入ることが出来たので、ようやく落ち着いてブログの更新をしています。

 

が、なんかもう色々書きそびれてることが多くて、推し活関連はとりあえずまとめてこちらに!

つーかな、今年前半の最大の後悔は映画刀剣乱舞に狂ってるエントリをアップしそびれたことですよ…ブログ書いてる暇があったら映画観に行ってたレベルなので。

今更でも大丈夫だったら年明けにこそっとアップするかも。

 

2019年に見た鈴木拡樹関連コンテンツ(順番が前後しているかも)

エントリがあるものはURLを、ないものは簡単に感想を。

 

●舞台・No.9 福岡大千穐楽

 (東京公演の感想はこちら)

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 とても素敵な三兄弟、愛らしい「普通の人」でした。観ていてホッとしたなあ。

2幕、兄の言葉から、父親のトラウマを思い出した瞬間の子供に戻ってしまった顔がものすごく印象的でした。

 そして、大楽はテープが飛んで、とても華やかな終わりでした。

映像が残っていないのがつくづく惜しい…。

 

●映画・映画刀剣乱舞

 ムビチケ9枚が全然足りなかったという恐怖の体験をしました。この作品のおかげでシネマイレージが6000ポイント超えて、年末に映画1ヶ月観放題チケットを手にしたという…(でも忙しくて殆ど行けなかった)。

 観たかった「ザッツ・エンタテインメント!!」がここにありました。

 というか、純粋に「推しが演じる三日月宗近が物語のメインになるエピソード」をこの大舞台で出してくれるの?! っていう驚きと幸せが大きくて。

 あと、チケット戦争がないとこんなに心穏やかになれるのかと…映画素晴らしい…。

 あまりにも幸せすぎて、初回観たときはキャストテロップが出てきた瞬間号泣してしまった。

 常々思っているんだけど、ファンタジックな時代劇の映像コンテンツは新しく開拓の余地があって、その先駆けになっていくんじゃないかなって。

 2020年には東映ムビステの映画が待っているので、それがどうなっているか楽しみだったりもします。

 でも続編観たいなあ。第二弾よろしくお願いします。

 全然書き足りないから、年始にでも別エントリ立てます。

 

●アニメ・どろろ

 2クール目で作画が不安定になったのでちょっとヒヤヒヤしたんですが、美しい終わり方をしたなあとホッとしながら見てました。

 百鬼丸の物語でもあり、多宝丸の物語でもあったのが切ないし、百鬼丸が全ての身体のパーツを取り戻したところで、それが旅の終着点ではなく、生きていくためにはここからがスタートで、百鬼丸は自分自身で自分を成長させなければならないっていう容赦ない結末を与えたことに、令和元年の作品だな、としみじみしました。

 最終話の百鬼丸と多宝丸の戦いが本当に好き。良い作品だったなあ。

 

●ドラマ・虫籠の錠前

 自分でもよく理由がわからないんですが、盛大に沼った。すごく好き。

 野生児カゴロク最高すぎるでしょ…。アクションがガッチガチ野性味溢れているのが大変好みでした。

 清原翔とのバディはまた観たいです。本当に観たいです。

 試写会が当たって行ったんですが、そのときの清原くんが本当に喋るの得意ではない感じで、それが「なつぞら」であんなにブレイクするんだから、色々凄いなあ。

 成田先生、時代劇版虫籠をお待ちしています。

 

●舞台・どろろ 福岡公演、三重千穐楽

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●アニメ・舞台どろろ 合同イベント

 全員の浴衣と甚平姿がとても涼やかで良かったです。初めて埼玉に行ったよ!

 聞きたかった話が沢山聞けたんですが、舞台で百鬼丸と三郎太の殺陣がついたのが開幕の数日前だったとか、大阪公演まで通しがほぼ出来ない状態だったとか、予想はしていたんだけどよく考えるとヤバヤバのヤバな話があって、大楽にあの完成度まで持っていけたのは凄いなとしみじみしてました。

 

●Eテレ・マリーの知っとこジャポン

 「狂言」あたりから、ギャビーが見守る立場だったのが、徐々にマリーちゃんと一緒に挑戦する立場になっていってるのが面白いなと。「尺八」はハラハラドキドキのドキュメンタリー回だった。10分の中の密度が素晴らしくて、さすがEテレ

 毎回、マリーちゃんに対してガイドをしつつ、先生の技を盗む目をしているのが本当にいいなって思う。

 これからも楽しみにしてます。

 

●舞台・PSYCHO-PASS Virtue&Vice 東京公演、大阪公演、LV

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 予想外の沼その2。PPVV、アホみたいに好きです。あのエンドも含め。

PP本編がダメだった人なのに一体何があったんだ。

 アニメでやらないスピンオフを舞台でやる、っていうのは、本広総監督率いるPSYCHO-PASSっていうコンテンツだからこそ出来ることだろうとは思っていて、だからこそPPVVは2.5のカテゴリに入れていいんじゃないかとは思ってるんだけど、役者が上手いとこんなに重厚になるんだなって。登場人物達の存在感の生々しさと叙述トリック極めた脚本、そして脚本のために道化になることを恐れなかった鈴木さんの演技が本当に好き。

 この脚本構成だと、どう考えても九泉のキャラは立たないというか、立ったら物語が成立しないんですよね。キャラは物語の核であるシビュラシステムが壊すために存在するものだから。

 ミステリ小説のキャラだとよくある狂言回しだとは思うし、大体そういうキャラクターって視野の狭いヤツ扱いされがちなので(姑獲鳥の夏での関口とか)、役として演じるとなると役者的な旨味ってあんまりないと思うんですが(円盤のキャスト座談会で、誰の役をやってみたいかっていう話題のときに、キャストの誰一人「九泉をやりたい」って言わなかったのは象徴的だなって)、自分を目立たせるんじゃなくて物語を立てる方向でキャラクターの肉付けをしていったんだろうなと。

 3係は壊滅エンドで、おそらく今後出てくることはないんだろうけど、本当の九泉がどんな人だったのか、知りたい気はする。まあ、あんまり詮索するのも野暮かな、とは思うんですが。休憩なし2時間が短いくらいだった。凄い作品に立ち会えて、幸せだったなあ。

 

●舞台・最遊記歌劇伝 DARKNESS 大千穐楽

 過去作は円盤で観ていて、まさかの大楽が取れたということで行ってきたんですが、元々私自身がミュージカルとの親和性がとても低いので、割と物見遊山だったのは否めないんだけども。

 実際観たら、熱量に度肝を抜かれたんですよ。作品に対する愛と執念の深さに圧倒された。

 鈴木さんにしても椎名の鯛ちゃんにしても唐橋さんにしても、最遊記最遊記歌劇伝に対する執着と言ってもいいような感情が物凄いなって。

 峰倉先生の具合が決して絶好調ではなさそう、というのもあるかもしれないけど、熱量が舞台を成立させてるんだなってしみじみ思いました。

 で、さらに言うと、過去の円盤を見ていたので、三蔵一行の歌の部分に関しては期待値をあまり上げないようにしてたんですよ。なんだけど、大楽の歌は、物凄く気持ちが入っているなと感じたので、リトショまでにもっともっと練習して、クリエの舞台上でシーモアとしての歌と演技を楽しみにしてます。

 

●舞台・幽☆遊☆白書 福岡公演

 実は原作に関しては幽霊探偵編までしか触れていなかったので、舞台を観る前に原作を一気読みしていったんですが、序盤の美味しい部分を詰め込めるだけ詰め込んだモリモリの脚本が楽しかったです。なんか、すごく演劇を観た気分だった。

 座長じゃない分、崎山くんをフォローすることに回ってるんだろうなっていうのと、本当に楽しそうに蔵馬を演じてるなっていうのが印象的でした。そして足が長い。PPVVのときにも思ったけど足が長い…どういう構造をしてるの…。

 

●ドラマ・カフカの東京絶望日記

 1話を見たときにアサダアツシさんのフェチっぷりに驚いたんですが、2話以降はもっと凄かった。虚無顔のカフカさんと虚無顔の子猫のマッチングが面白すぎてこんなことある?! って笑い死にそうになったり。

 なんだけど、ピクニック回の自殺未遂の話とか、つぐみちゃんの女芸人の話とか、浮世離れした突飛なキャラクターのカフカさんはいつもどおりにしているんだけど、カフカさんを中心にして波紋が広がるようにじわりと変化をもたらすエピソードが、苦いけれど確かに今の日本と地続きで、こういう映像作品好きなんですよね…。テレビドラマは今と接続していてほしい人間なので。

 つーか、カフカさんのキャラ付けと演技が最高すぎて、ローテンションから一気に最高潮になるの好きです。

 ドラマが最初からシネスコサイズだったので「あれ?!」と思ってたんですが、再編集版が映画館でかかるというのも楽しみ。

 でも、つぐみちゃんは奈緒ちゃんで見たかった気はするなあ。かずさちゃんも好きなんだけども!

 そしてその後、アサダさん脚本の「Happydays」を見て結構な衝撃を受けたんですが(大学生レズビアンカップルの甘くて苦い話です。ミニシアター系の洋画のような雰囲気と展開だった…そして衝撃のラストだったので続きが気になりすぎるし、来年の今泉監督の映画「his」もめちゃめちゃ楽しみだったりする)舞台版の大楽を鈴木さんが観に行っていた事に、なんだかよくわからないけど、物凄く信頼感が湧いたというのは個人的な感想。

 

●いんぷろ 第1回、第2回公演

 去年に続いて今年も席がご用意されました。ありがたい…。

 鈴木さんの「言葉」に対する感度の高さと、機転のききまくった発想から生まれる演技を浴びられる楽しい90分なんですが、その中でも印象的だったのが第2回の公演にあった、1つのお題(原始時代)を「コメディ」や「SF」といったジャンル縛りで演じるというエチュードで。

 原始人がマンモスを捕まえて料理して食べる、っていう一連の流れだったんですが、コメディではマンモスに捕まえられて料理にされる、というオチに変化したり、という咄嗟の機転が凄かった。というかこれガラスの仮面で読んだやつだ…凄い…本当に出来るんだな…っていう衝撃がありました。

 めちゃめちゃ笑って楽しんで、オウサムの後輩くんたちの成長も微笑ましくて、また来年も楽しみです。というか来年やる暇あるのか???

 

●映画・髑髏城の七人Season月〈下弦の月ゲキシネ

 散々エントリがあるのでそちらを見てください…w

 と言いつつ。とにかくアニメのような画面分割が入るのが最初は面白かったんですが、あれ、全員の表情を押さえられるから慣れたら大変良いですね…。

あと、ゲキシネ版はマイクオフの台詞をとにかく丁寧に入れ込んでいて、一度だけ実質最前列で観たときに聞こえた辺りの台詞が全部入ってた。

捨天対決のときに天魔王が「捨之介!」と名を呼び続けるのと、頑是ない子供のように首を振るシーンをきちんと押さえてくれていたので、本当に感謝しかないです。

やっぱり、ゲキシネ版は音のいい映画館で観たいなあ。

 夢のような時間からもう2年経っているっていうことにびっくりしますが、夢は夢だからこそ得難いものなんだなとも思いつつ。

 

…って、ざっくり並べただけでも凄い量だな?!

 

どれも印象深いんですけど、2019年は特に映像作品が印象深かったかもしれない。

PPVVも演出が映像的だったし。

 映画刀剣乱舞が顕著だったと思うんですが、舞台作品と違って、映像作品はカメラで対象の役者一人だけを抜くことが出来るから、舞台で他の共演者との呼吸を合わせるために全体的に押したり引いたりするっていう部分が取っ払われて、役者の存在感がモロに出てしまう恐ろしさがあると思うんですね。

 勿論編集によって最終的には監督の感性に合わせたものにはなるんでしょうけど、カメラを前にして遠慮も容赦もなく演技の出力を上げたら、こんなに画面の中で目を引くのかという気づきがありました。

 日テレプラスで放送された映画刀剣乱舞の特番があるんですが、椎名の鯛ちゃんが「ほぼ舞台デビューが一緒だったんだけど、昔は殺陣も出来ない、演技も出て来ない、でこの子大丈夫かなと思っていたのに、多分見えないところで物凄い努力をしてきたんだと思う、映画を観たらキラキラしていて、言葉に出来ない」という感想をしみじみと話していたのが印象的だったんですね(これ円盤に収録されればいいのになあ…GyaOの特番と構成は同じなんですが、尺が60分なんですよね)。

 鈴木さん自体は、色々なインタビューを読む限り、元々は親の跡をついで美容師になるつもりだったようだし、おそらく役者になったこと自体がイレギュラーなんじゃないかなと個人的には思っていて、デビューも早くはないし、役者としての文化資本があるわけでもなく(例えば親が役者だったりすると、それだけで持っているものが違うと思うので)徒手空拳で、ひたすら板の上での経験を積み重ねることが今の鈴木さんを構築したんだろうな、と考えることがあり。

 よく「劇団に入りたかった」というフレーズが鈴木さんのインタビューで出て来ますけど、特に大学の演劇研から始まっている劇団とかは、大学に入るまで演技を知らなかった役者もしばしばいるから、ロールモデルとしては最適だと思うんですよね。

 でも、リトショのために結構早い段階から(撮影は挟んでいるにせよ)歌稽古に入っている様子を知って、さらに「アルキメデスの大戦」が戦争もの会話劇というストプレでも恐らく難易度の高い部類に入るだろう内容なのが今から予想出来るのもあり、来年はおそらく転機になる作品が沢山ありそうなので、来年の推し活も本当に楽しみです。

 問題は東京公演に行きたくても、既に飛行機ホテルともに高騰しつつあって、なかなか行きづらいことだけどな!

 車検がなければいいんだけど、来年の夏車検で色々吹っ飛ぶのが見えてるのが辛い。

 地方公演、本当にありがたいので、行けるものはなるべく行きたい所存。

 年始しょっぱなから映画もあるしスマホ2もあるしで、楽しい推し活になりそうです。

 今年も楽しい1年をありがとうございました。

 そして髑髏ボックスも買ったよ! 私のステアラがようやく終わった気分。